富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
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川と遺跡
 

 
神通川は、かつて多くの流路がありました。ここでは、打出遺跡の発掘調査成果を中心として、遺跡の東側にあった旧河道の一つである古古川(現在の下須川)がたどった変遷をご紹介します。
 
打出遺跡は、河口付近の古古川沿いの自然堤防(標高約2m)に立地します。これまでの発掘調査で、縄文時代晩期、弥生時代後期前半から古墳時代前期後半、奈良時代から平安時代、室町時代、江戸時代と、多くの時代に形成された遺跡であることが判明しています。
 
周辺に比べて3mほど低い古古川の痕跡は現代まで残っていました。発掘調査では、弥生時代の終わり頃の古古川の岸辺で行われた儀礼の跡が見つかりました。(考古学NOW「三連壺」参照)なお、古古川の堆積土には各時代の出土品が多く含まれていました。
 
出土品が堆積した古古川の地層やそこに含まれていた出土品の年代から、いつごろ、どの程度まで埋没したのか、考古学ではある程度推定できます。しかし、水量はどうだったのかなど川の状態を知ることはできません。ここで、自然科学分析が重要になります。古古川の堆積土に含まれる珪藻(淡水、海水に生じる藻の総称)の化石がどのような環境に特有のものであるのかを調べ、それらの化石が含まれる堆積層の年代を考慮することで、各時代の古古川がどのような状態だったのかを探ることができます。
 
分析の結果、古古川の堆積土に保存されていた珪藻化石は、保存状態が良好であることがわかりました。珪藻化石の分析結果に加え、自然堤防下の地層の様相やそこに含まれていた貝化石の種類と年代の分析、自然堤防上の遺跡の様相などを通して、打出遺跡周辺の古環境は次のような変遷を辿ったことが明らかになりました。
 
 
 
(1)古古川の形成以前
 
縄文時代は海水面が上昇し、前期には呉羽丘陵北西端付近の旧放生津潟べりで小竹貝塚蜆ヶ森貝塚などが形成されていました。
 
打出遺跡では、弥生時代から古代にかけての地表面が標高約2mにありましたが、その下にある標高約0mからマイナス約9mにかけての地層は洪水の影響を頻繁に受けていたことがわかりました。小竹貝塚や蜆ヶ森貝塚が形成されていた頃の当地は、旧河川の氾濫原(はんらんげん)だったのです。当時の河道からは遠く離れていましたが、このような環境にあったことで、後世に「古古川」と呼ばれた旧河道が形成されることにつながったと考えられます。
 
自然堤防下の地層は、標高約0mから約2mでそれ以下の部分と比べて劇的に異なりました。縄文時代後期(約3400年前)には氾濫の影響が少なくなり、草本(そうほん)植物が繁茂する沼沢湿地(しょうたくしっち)から自然堤防の形成へと固化が進行したことがわかりました。徐々に乾燥する時期を交えつつ、旧河道から溢れ出た氾濫水の影響を受けるようになりました。花粉分析から、この段階では周辺にハンノキ属からなる湿地林ないし河畔林が広がり、さらにその後背にはアカガシ亜属からなる平地林が広がっていたことがわかっています。後に打出遺跡が形成された氾濫原には、数時期にわたって平地林が存在したのです。
 
 
 
(2)古古川の形成以後
 
@縄文時代晩期
打出遺跡の発掘調査では、自然堤防上で縄文時代晩期の土器が出土しています。竪穴住居などの遺構は確認されていませんが、神通川左岸の海岸部へと縄文人の活動範囲が広がったことを示す貴重な資料です。このことから、遅くとも縄文時代晩期には古古川が形成され、西側には自然堤防が形成されていたことがわかります。
 
A弥生時代中期まで
古古川の氾濫が多かったようで、弥生時代前期までは自然堤防上に人びとの活動痕跡が残されていません。ただし、打出遺跡北西端(自然堤防の後背低地)では弥生時代中期の土器が出土しています。また、打出遺跡の対岸(古古川右岸)やや上流側に位置する四方背戸割遺跡でも中期の土器が出土しています。氾濫水の影響を受けやすい川べりでは人びとの活動痕跡が認められませんが、川べりからやや離れたところでは弥生時代中期に人びとの活動域になりつつあったことがうかがわれます。
 
B弥生時代後期前半
古古川の川べりでの人びとの活動が活発化しはじめる時期です。打出遺跡では、自然堤防上の堆積土のなかから、後期前半(約1900年前)の弥生土器がつぶれた状態でいくつも見つかっています。川が氾濫した際、そのまま埋もれたのでしょう。打出遺跡の対岸に位置する江代割遺跡でも、この時期の土器が同じような状態で出土しています。弥生時代中期までと比べて安定した古古川の河口部でしたが、氾濫することもありました。
 
C弥生時代後期後半から古墳時代前期後半
自然堤防上で集落が営まれた時期にあたります。打出遺跡や江代割遺跡では集落形成のピークを迎えました。これは古古川が安定していたことによると考えられます。古古川下部の堆積土の珪藻化石を分析したところ、古墳時代前期頃(約1650年前)には河道の中心が他へと移ったために、河跡湖(蛇行の甚だしい河川の一部が河道から断たれて生じた湖)のような状態になっていたことがわかりました。水量が安定し、物資運搬や情報伝達の要だった川が湖へと変化したことで、打出遺跡や江代割遺跡の集落は徐々に衰退し、途絶えることになりました。
 
D古墳時代中期から古代(平安時代前期)
河跡湖に変化したことで、旧河川の氾濫に伴って自然堤防上に新たな土砂が供給されることは少なくなりました。つまり、当時の旧河川の本流が遠くへと移ったことで、洪水時も全面的には冠水しない環境へと変化したのです。そのため、打出遺跡の発掘調査では古墳時代前期の竪穴住居跡と平安時代前期(約1200年前)の道路跡や畠跡がほぼ同じ面で確認されました。
ただし、打出遺跡では断続的に土砂が供給される部分もありました。古古川の川べりにあった弥生時代終末期(約1800年前)の土屋根竪穴住居は、使わないように決められたのち意図的に焼却処分されました。土屋根が崩れ落ちた後はそのまま放置されました。深さ40cmの竪穴内の堆積土の半分以上が長期間にわたる断続的な旧河川の氾濫で冠水した際のものでした。
 
E古代から中世、近世
河跡湖だった部分も再び河道に変化しました。これにより、氾濫の影響を強く受け、上流から供給される土砂が徐々に堆積するようになりました。その結果、古古川は中世までに埋没しました。氾濫の心配がなくなった打出遺跡や対岸の四方荒屋遺跡では規模の大きな屋敷が築かれました。近世にも人びとの生活痕跡が残されており、長期にわたって集落が形成されることにつながりました。
 
 

 
古古川河口部では、縄文時代から近世にかけてこのような川の歴史がありました。水量などが安定している川は人びとにとって重要なものであり、氾濫の危険が高まった川は人びとにとって重要なものではなくなりました。川べりの人びとの暮らしは、川の状態と密接に関わっていたのです。古古川河口部における縄文時代から古墳時代の遺跡の推移は、上流部に位置する呉羽丘陵北端部の状況(縄文講座20参照)と類似しています。このことは、場所を問わず、人びとの営みが川と共にあったことを如実に示すものです。
 
考古学のみから遺跡の消長を明らかにすることは難しいなか、自然科学分析(珪藻分析、貝化石分析、放射性炭素年代測定)の結果を総合することで、川の歴史と有機的に結びついた豊かな地域像を復元できるのです。
 
参考文献
富山市教育委員会 2004 『富山市打出遺跡発掘調査報告書』
富山市教育委員会 2005 『富山市内遺跡発掘調査概要Y』
富山市教育委員会 2006 『富山市打出遺跡発掘調査報告書』
富山市考古資料館 2007 田中義文、伊藤良永、千葉博俊 「神通川下流域における古環境の変遷」 『富山市考古資料館紀要』第26号
倉垣自治振興会 2009 『倉垣郷土史』


 
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