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「宅持」の意味 |
富山大学鈴木景二氏のご教示によると、「宅持」は「やかもち」と訓みます。奈良時代に越中国守として赴任(746年から751年)した「大伴家持」を連想しますが、ここに書かれた文字の人物は一般的な人名と考えられます。 |
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奈良時代の人名には、「小治田朝臣 宅持」や「池田朝臣宅持売(やかもちめ=女性)」などがあり、「宅持」という名前が流行したようです。 墨書土器の出土は、漆の付着物があることと合わせ、この付近に官衙関連施設があった可能性を示します。 |
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出土した墨書土器 |
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「家」と「宅」 |
当時は、家族という人間集団を指す場合に「家」を用い、建物とその敷地を指す場合には「宅」を用いており、「家」と「宅」は明確に使い分けられていました。子供が生まれた時、その子供に家族が持てるようにとか、すまいが持てるようにという願いを込め、名前をつけたのでしょうか。 |
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大伴家持は、748年春、越中国内を巡行し、各地で『万葉集』に残る歌を詠みました。本遺跡の北に接して「婦負河」(巻17-4023)と詠まれた旧神通川が流れ、「石瀬野」(巻19-4145)や「伊波世野」(巻19-4249)と詠まれた古代新川郡石瀬郷は、本遺跡北方にあったとされます(藤田富士夫2004「古代越中国新川郡の「道」と「郷」に関する若干の考察」『敬和学園大学人文社会科学研究所年報』第2号)。 |
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越中万葉ゆかりの地における「宅持」墨書土器は、大伴家持が巡行の際、近くを通った家持にちなんで、当地域に同じ訓み方をする「宅持」と名をつけられた人物がいた可能性を示す貴重な資料です。 |
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参考文献
吉田孝 1983 『律令国家と古代の社会』岩波書店 |
(鹿島) |
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