富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
Board of Education,Toyama City
 
中世の埋蔵銭
 

   
埋蔵銭とは  
富山県内の中世遺跡から、銭貨(殆どが渡来銭と呼ばれる輸入された中国銭)が珠洲焼や越前焼などの甕や壺から数百枚から数万枚まとまって出土することがまれにあります。これらを「埋蔵銭」や「一括出土銭」などと呼びます。

銭貨(銅銭)をまとめて埋めた理由として、貯蔵や貯蓄(備蓄)、戦争や災害などからの緊急避難、呪術(まじない)など様々な説があります。呪術的な埋蔵銭(埋納銭とも言う)としては、お墓に埋める「副葬銭(六道銭)」や山岳信仰に捧げる「奉賽銭」、土地の開発の際や城館などの境界で行うおまつり・井戸の廃棄に伴う「祭祀銭」などがあります。

壺に納められていた埋蔵銭
(富山市八尾町高善寺地区出土)
 
中には、埋めたのに忘れられた埋蔵銭や誰が何のために埋めたか分からない「埋蔵銭」もあります。今回は貨幣(お金)としての経済的な側面とは異なる使い方をされた銭貨に注目します。
 
 
富山県における
大量一括埋蔵銭の出土状況
 
富山県内での埋蔵銭の出土は、鎌倉時代に現われ、室町時代に多くみられます。埋蔵銭は、遺跡発掘調査中に見つかる場合と、ほ場整備工事や道路工事などの最中に不時発見される場合もあります。ここでは、県内で数百枚以上のまとまった単位でみつかったものを集めました。
分布図・表:塩田明弘2002「富山県における大量一括埋蔵銭集成」『出土銭貨』第17号出土銭貨研究会、
氷見市教育委員会2004『氷見市埋蔵文化財分布調査報告W』宮田進一一報文などを参照・一部加筆改変
 
 
八尾町高善寺地内【昭和59(1984)年出土】
昭和59年5月に八尾町高善寺地内のほ場整備の工事中、珠洲焼の壺(4基とされる)に銭貨が納められた状態でみつかりました。壺は石川県の能登半島の先端、珠洲市周辺で室町時代に製作されたものです。
令和4年4月に壺1基と銭貨を発見者のご家族から市に寄附をうけました。銭貨の総数は11,884枚です。現在銭種(〇〇通宝など)の判読作業を進めていますが、現時点(令和5年7月)で判読することができたのは44種類、2,627枚です。実際、壺に何枚銭貨が入るか実験したところ、7,030枚入ることが分かりました。
最古銭は「開元通宝」(初鋳621年)、最新銭は「永楽通宝」(初鋳1408年)で、埋蔵時期は15世紀以降とみられます。最も数が多かったのは「開元通宝」で376枚(14.3%)、次に「元豊通宝」(初鋳1078年)が311枚(11.8%)、「皇宋通宝」(初鋳1038年)は255枚(9.7%)を数えます。中国の王朝別でみると、北宋銭が82.6%と最も多く、次に唐銭で15.0%、南宋銭が1.9%、金銭は0.15%、また明銭も0.19%と続きます。
当初は地方豪族が備蓄を目的として埋蔵したと考えられていましたが、その後県内の各地で大量の出土銭がみつかり、その調査をもとにすると地鎮目的で埋納されたのではという説も出てきました。出土場所の近隣には寺院に安置されていたとされる供養塔の一部が見つかっており、それとの関係も推測されます。
 
出土した状態(昭和59年撮影)   珠洲焼の壺(残存高35cm)
 
 
各願寺前遺跡【平成7(1995)年出土】
婦中町長沢地内の真言宗高野山派の各願寺に向かう参道(農道)舗装改良工事が行われた際に、側溝部分から大量の銭貨が出土しました。全体の約三分の一が孔に藁紐を通して結び目をつくった(さし)銭(一緡97枚で百文とみなす)の状態でした。
出土地点からは珠洲焼の壺破片5点と擂鉢(蓋として利用か)破片1点が採集されました。銭貨の総数は3,266枚で、その内、判読することができたのは51種類、3,215枚です。最古銭は「開元通宝」、最新銭は「宣徳通宝」(初鋳1433年)で、埋蔵時期は15世紀第2四半期とみられています。最も多かったのは「皇宋通宝」(初銭1038年)で364枚(11.2%)、次に「元豊通宝」(初銭1078年)が327枚(10.0%)を数えます。中国の王朝別でみると、北宋銭が76.9%と最も多く、次に明銭で9.9%です。

これらの銭貨が現参道の側溝部分からの出土で、 当時の参道の位置と変わらなければ、銭貨は側溝中に意図的に埋められた可能性があります。また、周辺には14世紀から16世紀の遺構・遺物が確認されています。銭貨の近くからは銅製仏具も出土しており、地鎮など寺院に関連した行事に伴い埋納されたとみられます。
 
出土した銭貨の状態   塊をほぐした状態(左の写真とは別もの)
文献:大野英子2015「富山市各願寺前遺跡出土の一括出土銭について」『富山市考古資料館紀要』第34号
 
 
上布目遺跡
【昭和47年(1972)年出土】
ほ場整備の工事中に、珠洲焼の甕に納められた銭貨がみつかりました。 総数は約3,200枚で、最古銭は「開元通宝」(初鋳621年)、最新銭は「永楽通宝」(初鋳1408年)で、埋蔵時期は15世紀以降とみられます。
上布目を含む熊野川右岸の平野部は、鎌倉時代以降に荘園(太田保)が成立し、荘園を管理する荘官などが館を構えていました。周辺には経塚(江本経塚・塚根経塚)や墓地もみられ、寺院との関係も推測されます。
 
【平成13(2001)年発掘調査】
土砂採取工事に伴う調査で、墓穴とみられる土坑などから計46枚の銅銭が出土しました。最古銭は「開元通宝」、最新銭は「元豊通宝」(初鋳1078年)です。土坑の側には、大型掘立柱建物(馬小屋を伴う5間×4間以上の建物と、西面に(ひさし)を持つ4間以上×4間以上の建物、いずれも総柱建物)が重複して築かれています。これらの遺構の時期は12世紀中頃から13世紀後半とみられています。
鎌倉時代以降、この地域一帯は大田氏や蜷川氏が支配する太田保に含まれ、室町時代には管領細川氏が支配していました。銭貨が出土した土坑からは焼骨や炭、焼土、礫なども出土し、銭貨や礫は多くが焼けていました。この地域を支配した有力者が亡くなった際、その副葬品として銭貨が埋納されたことが推測されます。
 
平成13年度調査区全景   銅銭25点が出土した土坑
文献:富山市教育委員会2002『富山市上布目遺跡発掘調査報告書』
 
 
コラム 「何のため?こんな銭貨の使い方」
江戸時代の瓦や陶器(越中瀬戸焼)に「寛永通宝」を押し当てた痕が残るものが、東京と富山で出土しました。
瓦の狭端面(きょうたんめん)には4つの銭の痕があります。陶器の底部外面には4つ、欠けた部分を復元すると6つの銭の痕となります。陶器の方は、「六道銭」あるいは「梅鉢文」を意識したのでしょうか?
瓦・陶器いずれも表からは見えない場所に押し当てられており、どのような目的で製作されたのか皆さんも想像してみてください。
 (鹿島・成瀬)
※令和4(2022)年7月21日から12月4日安田城跡資料館ミニ企画展「ざくざく・ドキドキ・まいぞう銭」リーフレットより


 
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