富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
Board of Education,Toyama City
 
富山城跡出土の「病院」銘陶磁器について
 

 
はじめに
平成28年度に実施した総曲輪レガートスクエア東側(富山城三ノ丸跡)の公共下水道工事立会調査で、土坑2箇所(SK5及びSK9)から富山市民病院銘入りの陶磁器がまとまって出土しました。近年、隣接する発掘調査区においても病院銘の入った陶器やガラス製品が出土したことから、近代における病院の変遷を概観し、これら陶磁器の用途について検討しました。
 
 
「富山市民病院」銘の陶磁器
土坑から出土した陶磁器の器種には、丼、丼蓋、碗、皿(中・小)、輪花皿、湯呑があります。病院銘が多用される丼について、分類・検証を試みました。丼は、口縁部が内傾ぎみに外反し蓋が付くAと、口淵部が外反し内面に稜を持たない丼B、口縁が外反しない丼Cがあります。
 
丼Aは、外面口縁部に緑色の二重圏線を施し、病院銘を付さず底部に統制番号を付す丼ATと外面口縁部に二重圏線を施し、病院銘を付す丼AUに分類しました。また、丼AUは病院銘を上絵の朱書きで右横書き(院病民市山富)する丼AUaと、上絵の朱書きで左横書き(富山市民病院)する丼AUb、病院銘を緑色でスタンプする丼AUcに分類、外面口縁部に二重圏線を施さず、植物などの色絵を施す丼AV、二重圏線を施さず、内外面に青磁釉を施すもの丼AWとしました。
 
次に製作年代について検討します。丼ATは統制番号「岐971」(*1)が付されていることから、昭和15(1940)年8月から21(1946)年頃(*2)の間に製作された統制陶磁器です。丼AUの右横書きと左横書きについて、太平洋戦争前は右横書きが優勢でしたが、昭和15年頃から左横書きが散見されるようになり、『公用文作成の要領』(昭和26年10月30国語審議会審議決定・同27年4月4日内閣官房長官依命通知)で「書類の書き方についてなるべく広い範囲にわたって左横書きとする」こととなりました。新聞の見出しの横書きは昭和23年頃までに左横書きに切り替わっています。これらのことから、昭和25年前後に右横書きから左横書きに替わっていることがうかがえます。よって、丼AUaは昭和21年から昭和25年頃に製作され、丼AUbは昭和25年頃以降に製作されていたと推測できます。
丼の分類
一方、土坑SK9から出土する丼は丼AUaに限られる(丼蓋を含め)。土坑SK5からは、丼AUaと丼AUbが混在して出土していることから、SK9はSK5よりやや古い時期(昭和25年頃以前)に埋まったことが推測されます。丼AV・丼AWはいつから生産されたかは不明ですが、いずれもSK9からの出土のため、丼AUaとほぼ同時期に生産・使用されていたことが推測されます。丼AUcタイプは全てSK5からの出土となり、昭和25年頃以降に製作されていたと推測できます。
 
 
近代病院の動向と「病院」銘入り陶器瓶
西洋式近代病院は、北陸では明治3(1870)年に金沢藩立医学館(現・金沢大学附属病院)が金沢市大手町津田玄蕃邸に開設、同年、福井藩立魁病院が開設されました。医学館は黒川良安(上市町生まれ、長崎で蘭方医学を学び、金沢で開業)が藩命で開設しました。明治8(1875)年、医学館が石川県に移管され、石川県病院となります。廃藩置県で新川県となった越中国内でも、病院の必要性が建議されていました。明治9年10月には石川県権令桐山純孝から「公立金沢病院富山分院」設置の命令が出ました(富山県1981)。
 
これを受け富山市千石町の武家地、加藤貞知邸に公立金沢病院富山分院が仮設置されます(1895『富山高岡沿革志』)。病院長は田中信吾(緒方洪庵の適塾出身)、その翌年11月、石川県富山病院と改称し、総曲輪(現・大手町、富山市民プラザの場所)に新築移転します。同16年7月、富山県が設置されると同時に富山県富山病院と改称し、同21年4月には上新川郡立病院、同22年4月には新川郡と婦負郡2郡立の新負病院となり、同24年4月には富山市立病院となりました。同32年までは市内唯一の総合病院でしたが、同年8月の市内大火で焼失しました。千石町に仮設置された公立金沢病院富山分院は、西洋式近代病院システムが導入された現在の富山県内最初の病院です。旧総曲輪小学校跡地(2015b)からは、「富山病院」銘が陽刻されたガラス製薬瓶が4点出土しました。大火の後、同34年8月、富山市立病院が旧敷地にて新築されました。同40年5月、市立病院を富山市より買収して、日本赤十字社富山支部病院が開設されました。2015b地点の調査では、「日本赤十字社富山支部病院」銘陽刻されたガラス製薬瓶が2点出土しています。
 
「富山病院」銘、「日本赤十字社富山支部病院」銘のガラス製薬瓶
 
一方、総曲輪四丁目・旅籠町にまたがるマンション新築工事に先立つ発掘調査(2008b)で、「病院」銘の陶器製徳利瓶が1点出土しました(写真1の右)。明治時代前期まで生産された越中丸山あるいは小杉焼製とみられ、千石町から総曲輪に移転した富山病院にて使用されていたと推測されています(鹿島2016)。「病院」のみで「富山病院」と銘記されなかったのは、明治32年まで市内唯一の総合病院であったことからと推測されます。「病院」銘入り陶器瓶は、これまで旧総曲輪小学校跡地(2014b・写真1の左)、小矢部市五社遺跡で各1点出土しています(県財団1998)。五社遺跡のある県西部では、伏木町(現・高岡市)で明治14(1881)年に、県内で最初の私立病院である長谷川病院が創立し、同18年に今石動町(現・小矢部市)、同22年には津沢町(現・同市)に病院が開設されました(小矢部市1971)。
写真1 病院銘陶器瓶
病院銘入り陶器瓶が出土した五社遺跡は、これらの病院に近接しておらず、その背景を検討する必要があります。また、砺波民具展示室には「長谷川福光分病院」銘の陶器瓶が1点収蔵されています(*3)。長谷川病院福光分院では、感染症の検査や治療に効果のある血清療法による治療が行われていました。同病院の創設者、長谷川徳之は伝染病が頻発していた当時、防疫活動に従事し(高井2003)、毎年伏木町児童に無料で種痘を施すなど公衆衛生に尽力されました(寺畑1987)。
一方、石川県金沢市の前田氏(長種系)屋敷跡から「金沢病院」と書かれた徳利瓶が1点出土しました(口径2.2cm、底径6.1cm、高さ18cm)。当屋敷地東側には、津田玄蕃邸があり、明治3年に開設された金沢藩医学館を前身とする金沢病院(同5年)がありました。同8年に石川県金沢病院として経営が県に移管した後、同38年に中石引町に移転新築するまで、当地にあったとされる(石川県教育委員会ほか2002)ことから、この金沢病院にて何らかの用途で使用されていたとみられます。
 
さらに、福井県坂井市の三国焼札場窯から出土した陶片にイッチン掛けによる「福井病院」銘の薬瓶とされる陶器片があります(龍翔館1987)。札場窯は明和5(1768)年に開窯し、明治29(1896)年に廃窯となっています。福井病院は、石川県富山病院と同時期に石川県福井病院として開設され、その分病院が坂井港に設置されていました。
 
富山、石川、福井の病院銘入り陶器瓶はいずれも19世紀後半の明治前期に生産・使用されていたと推測されます。福井の例は小瓶(目薬サイズヵ)ですが富山・石川の例は徳利サイズです。江戸期の通い徳利のような使用方法も考えられますが、長谷川病院福光分病院における療法や時代背景からも伝染病対策用の消毒用の生理食塩水やアルコール容器、薬瓶などの医療用品としての用途を推測しておきたいと思います。
 
 
富山市民病院の開設と病院用食器について
明治40(1907)年に富山市立病院が日本赤十字社富山支部病院になって以降、当地には明治43年に県立薬学専門校が新築竣工し、大正13(1924)年には富山警察署が薬学専門学校跡に移転、昭和15(1940)年には富山警察署跡に富山市工業指導所を設けるといった変遷をたどります。明治40年以降は市立の総合病院は存在しませんでした。
 
昭和20年8月の富山大空襲によって富山市内の公私立の医療施設は壊滅します。同年9月14日に富山市議会が開かれ、富山市民病院建設費の予算が提出、全会一致で可決されました。更に11月16日、市民病院の設置が富山市参事会に附議され、可決されました。
『富山市民病院史』によると、昭和21年1月30日に第1病棟が竣工し、2月5日に富山市民病院仮開院式並びに病棟竣工式を挙げ、2月12日から診療を開始しました。病院開設許可申請書を富山県知事に提出し、12月1日富山県指令第2047号で許可されました。
 
また、入院患者及び付添人の便宜上、食堂設置の要望があり、総曲輪の宮本力雄が経営することになりました(富山市立富山市民病院1987)。同病院史の診療棟、病棟見取図には北側の第一病棟と南側の第二病棟にそれぞれ「炊事場」の表記が見えます。今回の調査で市民病院銘の食器が出土した土坑は、第二病棟の炊事場に近接しているとみられ、ここで使用されていたものが廃棄されたと推測することができます。
 
以上のことから、SK5、SK9で出土した富山市民病院銘の陶磁器は、昭和20年11月に富山市立富山市民病院の名称が定まった以降に製作されたことが分かります。その一方、右横書きで「院病民市山富」と書かれた丼や丼蓋などには、口縁部に二重圏線を有する厚手の食器、国民食器が用いられます。この食器は、工場や病院、軍隊施設などにおいて給食用の食器として生産され用いられました(瑞浪市2012)。終戦直後の物資不足の中、戦前から使用されていた国民食器や統制陶磁器などを利用しながら病院用給食食器を確保していた実態を垣間見ることができ、近代から現代への移行期の病院史を物語る貴重な資料です。
 
(鹿島)
*1 統制番号「岐阜971」は、美濃古窯研究会1999『美濃の古陶』によると、駄知陶磁器工業組合の駄知町(現・岐阜県土岐市)塚本久造が生産者であることが分かります。
*2 萩谷茂行2013「統制経済下における陶磁器製品製造、流通の一考察〜いわゆる「統制番号に関する検証」『瑞浪市歴史資料集』第2集 瑞浪市陶磁資料館を参考
*3 口径2.6cm、底径6.2cm、高さ16.4cm
 
参考文献
赤祖父一知 1993 「石川県富山病院・同医学所について」『医譚』第64号
尾山京三 2004 『富山県の陶磁器思考(1)藩政時代〜昭和終戦時代』(株)シンクハウス
鹿島昌也 2015 「富山城下町遺跡出土「病院」銘入り徳利形陶器瓶の意義について」『日本考古学協会第81回総会 研究発表要旨』日本考古学協会
鹿島昌也 2016 「富山県内の近代「病院」銘入り陶器瓶について」『富山市の遺跡物語』第17号富山市教育委員会埋蔵文化財センター
西田尚紀 1972 「石川県(金沢)病院および医学所」『金沢大学医学部百年史』
高井靖夫 2003 「県下初の私立病院創立者長谷川徳之」『高岡の図書館』第69号
寺畑喜朔 1987 「長谷川徳之の事績と系譜」『医譚』復刻第55号
福永肇 2014 『日本病院史』株式会社ピラールプレス
金沢大学 1999 『金沢大学五十年史』
石川県教育委員会・(財)石川県埋蔵文化財センター 2002 『金沢市前田氏(長種系)屋敷跡』
金沢大学埋蔵文化財センター 2017 『金沢大学構内遺跡―角間遺跡、宝町遺跡、鶴間遺跡―』
(財)富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所 1998 『五社遺跡』
富山県 1981 『富山県史』通史編X近代上
富山市上下水道局・富山市教育委員会 2018 『富山城跡発掘調査報告書』
富山市立富山市民病院 1987 『富山市民病院史 創立40周年記念』
瑞浪市陶磁資料館 2012 『特別展 番号の付されたやきもの』
龍翔館<三国町郷土資料館> 1987 『第6回 特別展「三国焼」展』


 
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