富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
Board of Education,Toyama City
 
蛇紋岩じゃもんがん製石斧の生産と交流
 

 
蛇紋岩と産地
蛇紋岩は、構造線(地質構造上の大規模な断層)沿いの広域変成岩こういきへんせいがんに伴って産出します。糸魚川−静岡構造線(フォッサマグナ)に沿った糸魚川市の姫川流域に顕著です。硬さはモースの硬度計で3とされていますので十円銅貨と同じほどの硬さです。独立した鉱物名ではなく類似した数種の鉱物-板温石、マーモライト、硬蛇紋岩など-を総称しています。このため硬度に2.5から5.0と幅があるという人もいます。
姫川流域には蛇紋岩の転石がころがっています。また、富山県東部の海岸には打ち寄せられた蛇紋岩の漂石ひょうせきが目立ちます。朝日町の「ヒスイ海岸」は美しい石が拾えることで知られています。きれいな青緑色をみて“翡翠ひすい”と思い込んで拾っていく人もいます。その多くは蛇紋岩や緑閃石りょくせんせきなのですが。
ヒスイ海岸
朝日町「ヒスイ海岸」
 
 
石斧の材料として
転石や漂石はかどがとれて丸石となっています。軟らかな部分はとれて硬い部分だけが残っています。この地域の蛇紋岩は滑沢かつたくに優れ緑色が美しく硬さに均質性きんしつせいがあります。磨いて刃をつければ鋭い道具になります。縄文人は、それを見逃しませんでした。
 
縄文早期末期から前期前葉の糸魚川市の川倉こうくら遺跡や富山県朝日町の明石あげしA遺跡、上市町の極楽寺ごくらくじ遺跡では蛇紋岩製の磨製石斧ませいせきふ敲打こうだ具が見られます。極楽寺遺跡は産地から遠く離れていて、製品が持ち運ばれてきたようです。一方、ここでは蛇紋岩と同じ岩脈に産する滑石かっせき蝋石ろういし(硬度1)が持ちこまれ、けつかざり(=けつ状耳飾じょうみみかざり)という装身具が作られています。
 
縄文前期後葉の富山市の小竹貝塚では蛇紋岩製のけつ飾や磨製石斧が目をひきます。蛇紋岩の産地からは45kmも離れていて原料が持ち込まれたことを物語っています。けつ飾には、加工途中のものがあって、ここで製作されています。前代には、軟らかな滑石を用いていたので技術向上のあったことがわかります。手先の器用さを競いあったのでしょうか。長さ2cmから3cmの小型石斧がたくさん出ています。これなどは実用品とは考えられません。民族学でいうヴァイグア(作ること自体に価値を認める)の一種かもしれません。
 
縄文中期には、産地に近い糸魚川市の寺地てらじ遺跡や富山県朝日町のさかいA遺跡などで大規模な磨製石斧の作製が行われました。富山市の史跡北代遺跡にも原石が持ち込まれて製作が行われましたが、産地ほどではなかったようです。石斧のような大きな原石を必要とする代物は、産地から交易で入手されたものが多かったようです。ほかに史跡北代遺跡では翡翠の原石が出ていて装身具の加工が少しだけ行われていました。原石はせいぜい5cmから6cm大なので持ち込むのには苦労はなかったようです。産地から嫁いで来た人でもいたのだろうかと想像がふくらみます。
 
縄文後期・晩期では、朝日町の境A遺跡で大規模な磨製石斧の製作が行われました。一集落では消費しきれない数量が生産されています(境A遺跡では中期から晩期の蛇紋岩製石斧未製品が総数13,857点出ています)。
 
蛇紋岩製けつ飾 小竹貝塚   磨製石斧 小竹貝塚
蛇紋岩製けつ飾 小竹貝塚   磨製石斧 小竹貝塚
 
 
縄文の広域交流
当地域で生産された蛇紋岩製の磨製石斧がよく伐れる優れた道具として、装身具は美しく滑沢ある緑色で、いずれもブランド品として遠くへ運ばれて行ったようです。長野県や栃木県でも北陸産の石斧が出土しています。美濃の遺跡からも、北陸産の蛇紋岩製遺物が出土しています。それは富山県東部や新潟県西部から飛騨地域を経由して、縄文の広域交流ネットワークに乗って運ばれたことを物語っています。その交流は、縄文のほぼ全期間にわたって続いていたようです。日本海側と太平洋側とを結ぶ縄文人の大道たいどうが見えるような気がします。
蛇紋岩製石斧の産地からの広域交流ネットワーク
蛇紋岩製石斧の産地からの
広域交流ネットワーク
(藤田富士夫)


 
Copyright(c) Center for Archeological Operations, Board of Education, Toyama City. All Rights Reserved.