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梅鉢紋の入った九谷焼の碗 |
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平成24年度の市立八幡小学校体育館改築工事に伴う今市遺跡の発掘調査で、明治時代以降の土坑(穴の直径約2m、深さ約0.3m)から碗が出土しました。 |
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碗は口径6.3cm、器高6.3cmで、器形は湯呑みで、陶器仕立てです。外面に参勤交代の様子を表した色絵と前田家「梅鉢紋」及び「呉羽」の文字の朱書きが見られます。外面底部付近は露胎(釉薬がかかっていない状態)で、高台外側に「九谷」の印刻が施されています。この製品は石川県能美市(旧寺井町)地内の窯で焼かれた九谷焼であることが判明しました。 |
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「九谷」の印刻は幕末以降、九谷焼が海外に輸出されるようになってから、入るようになったもので、明治時代前期頃に製作されました。 |
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「九谷銘前田家梅鉢紋入参勤交代呉羽道中色絵椀」 |
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色絵は参勤交代の様子を描いています。絵を展開図にすると、行列は、右から左へ向かっています。また、「呉羽」が行列の先頭の左下に描かれていることから、行列が江戸(東京)から加賀藩領へ戻る際の参勤交代の道中の様子を描いていると推測できます。 |
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行列が「呉羽」の少し手前に差し掛かっていることから、地理的に八幡付近の富山藩領内の北陸街道を通過している様子を描いているようです。 |
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この「梅鉢紋」は加賀藩の「剣梅鉢」にみえるでしょうか?それとも富山藩の「丁子梅鉢」を表しているのでしょうか?前者だと、加賀藩のお殿様の位置を表していると推測することもできます。 |
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奴 挟箱 毛槍 弓 傘 毛槍 |
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江戸時代の八幡村では、文久元(1861)年、加賀藩や大聖寺藩の参勤交代にあたり、緊急時には八幡村の村役人が取仕切ることになっていました。 |
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この村の肝煎(村の世話人)甚右衛門宅は加賀藩主の休息所および歓送迎する富山藩役人の詰所でした。 |
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この碗は明治以降、八幡地区の住民(甚右衛門の子孫か)が北陸街道の沿線でお殿様をはじめ加賀藩の参勤交代の行列が通っていたことを語り伝えるために、旧加賀藩領内(旧寺井町)の御用窯職人に発注して作らせた来客用の特注品と考えられます。 |
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発掘調査地からは、北陸街道と軸方向を揃えた江戸時代の屋敷地を区画する溝が見つかっています。明治時代の地割図では、この場所が大きな「宅地」となっており、ここに屋敷地が存在したことが推測できます。 |
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甚右衛門の分家筋の方からの聞き取りでは、現在の八幡小学校の敷地が甚右衛門宅だったと伝えられています。そこから参勤交代の色絵を施した九谷焼が出土したことは、この場所が加賀藩主の休息所や役人の詰所だったことを裏付ける貴重な資料となります。 |
(鹿島) |
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