富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
Board of Education,Toyama City
 
ア・MEIZI(メイジ)・ングな
富山のレンガ


「SHINAG(AWA)」の刻印があるレンガ
レンガの種類
レンガ(煉瓦(れんが))には、大きく2種類があります。
普通レンガ(赤レンガ) 主に建築物や土木構造物を構築する材料として用いるレンガです。
国内各地で生産されました。
耐火レンガ(白レンガ) 製鉄炉や鋳物・焼き物・ガラス製作など窯業の炉やピザ窯の炉、防火壁としても用いられる場合があります。耐火度が高く、珪藻土(けいそうど)という特殊な土などを用いて作られるため、用途や産地が限定されます。
ほかに、製鉄炉などの高炉(こうろ)から出るスラグ(鉱滓(こうさい))を固めて作る鉱滓レンガ(黒レンガ)や酸性の液体やガスに対し耐酸(たいさん)性を示す耐酸レンガなどがあります。

イギリス積み
   
レンガの長手だけの段、小口だけの
段を一段おきに積む方法
 
   

フランス積み(フランドル積み)
 
一段にレンガの長手と小口を
交互に積む方法
 
 
 
レンガにみる富山の近代化
明治維新(めいじいしん)文明開化(ぶんめいかいか)を経て富国強兵(ふこくきょうへい)殖産興業(しょくさんこうぎょう)の名のもと、日本が近代国家への歩みを始める際に、産業や建物(大火(たいか)(火事)に強い)の近代化、鉄道建設、街路の整備などにレンガは不可欠となりました。
江戸幕末期に外国船からの海防のための大砲(たいほう)製造用溶鉱炉(ようこうろ)として、佐賀藩(さがはん)築地(ついじ)反射炉(はんしゃろ)(嘉永3(1850)年)、静岡の伊豆韮山(にらやま)反射炉(安政元(1854)年)用の耐火レンガ(白レンガ)が製造し始められました。赤レンガは、安政4年、長崎の製鉄所建設に際して、建築用材として生産されました。富山県内では、明治22(1889)から明治23年に石動(いするぎ)町(現・小矢部市)で、石黒兵太郎(いしくろひょうたろう)らによるレンガ製造が最初とされます(明治26年から石黒商店、現・石黒産業(株))。富山市内では、鉄道(北陸線)建設に伴う呉羽トンネル工事に使用するため、明治32年に長岡地区で福沢屋(ふくさわや)煉瓦(れんが)工場(久世(くせ)伊平(いへい))がレンガ製造を始めます。
富山市街地の洋風レンガ建築物は、明治32年の大火後にできた富山郵便局(明治34年竣工)が最初で、大正10(1921)年築の旧富山市役所などありましたが、昭和20年の空襲で焼失し、現存する近代レンガ建築物はありません。県内では大正4年に創業した旧高岡共立銀行などがレンガ建築物として現存します。 
その他のレンガ造りの建造物として、富山市内では明治33年竣工の新庄排砂水門(はいさすいもん)が現役です。大正に入りセメント工業が盛んとなり、大正12年に起った関東大震災後は、地震に対する抵抗力が弱いレンガ造りの建造物は(ほとん)ど造られなくなりました。
 
レンガ造りの旧富山市役所(現・大手町地内)   常盤町(ときわちょう)の新庄排砂水門(新庄の赤門)
 
 
相生町(あいおいちょう)遺跡【堀端町(ほりはたまち)地内】 明治18年から明治25年
住宅建築に伴う令和2(2020)年の試掘調査で、「2 MEIZI」と刻印のある耐火レンガが1点出土しました。レンガは幅10.5cm、厚さ6.0cm、残存長22.0cmを測ります。
機械を使わず手作業で木製の型枠に粘土を入れる「手抜き成形」によって製作されていました。耐火レンガが国内で生産し始められた初期の、明治10年から明治30年頃の製品とみられます。生産地は不明です。

「MEIZI」(明治)刻印のレンガ
「MEIZI」の「ZI」は、日本式(訓令式(くんれいしき))ローマ字と呼ばれる表記方法を用いています。この日本式ローマ字表記は、明治18(1885)年に考案されました。今では、「じ(ジ)」をローマ字表記する際には、「JI」(ヘボン式ローマ字)とすることが多いですが、明治期には両方使用されていたようです。日本式を改良した訓令式(ここでも「ZI」)と呼ばれるようになるのは昭和12(1937)年からです。
出土した場所や周辺には、明治期に耐火レンガを使用する工場などの存在は確認できていません。出土地点の西側40mには明治6年に博文(はくぶん)小学校が創立し、同25年に俛焉(べんえん)小学校(総曲輪)に合併されるまで 堀端町にありました。レンガが生産された時期と学校があった時期、日本式ローマ字表記が始まった時期を考えると、このレンガは明治18年から明治25年頃に博文小学校(明治20年から長柄町(ながえまち)小学校)で何らかの目的で使用されていたことが推測されます。
 
 
富山城下町遺跡主要部【八人町地内】 明治後期から大正時代
旧八人町小学校グラウンド南東隅の、市道(火防水路(かぼうすいろ))改良工事に伴う令和3年の調査で、「SINAG(AWA)」と「菱形(ひしがた)にS(.S)」(明治32年商標登録)と刻印のある耐火レンガ片が1点出土しました。厚さ6.0cm、幅10.6cm、残存長14cmを測ります。企画展(2022年3月から7月)で参考展示しました、東京都品川区仙台坂(せんだいざか)遺跡出土の完形品は長さ22.5cmです。明治から昭和期に品川区にあった「品川(しながわ)白煉瓦(しろれんが)株式会社」(現・品川リフラクトリーズ(株))で明治33年から大正13年の間に作られました。
レンガなどが出土した地点(着工前)
品川白煉瓦株式会社:明治工業の父と呼ばれる西村勝三(にしむらかつぞう)が、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)の協力を得て明治8年に創業、同40年、渋沢は同社の相談役となる。大正3年開業の東京駅の外壁化粧レンガは全て同社製。
八人町小学校は、明治6年に龍稚(りゅうち)小学校として創立、同20年に八人町尋常(じんじょう)小学校となります。同32年の大火で焼失し、同34年に現在の場所に移転移築されます。調査地からは、耐火レンガの他に焼台(やきだい)や窯の一部、窯道具など窯業(ようぎょう)に関連する出土品もみられました。
明治期の小学校教科には、図画工作(図工)の前身にあたる「手工(しゅこう)()」(明治16年から昭和19年)があり、陶工(とうこう)粘土(ねんど)細工(ざいく))いわゆる焼き物づくりの項目がありました。陶磁器や土人形の製作など小規模な窯業実習用の窯の炉材(ろざい)として、耐火レンガを使用していたことが推測されます。

出土した窯業関連遺物
一方、明治40(1907)年から大正15(1926)年まで、小学校区の下川原町(しもかわらまち)(現・日之出町(ひのでまち))には、「呉羽焼(くれはやき)」という呉羽山の粘土などを用いて陶磁器を焼成した窯場があり、荒町(あらまち)の商店などで販売されていました。この呉羽焼の陶工が手工科の指導をしていたことも考えられます。明治後期から大正期の八人町地区周辺は商工業地域で鉄工所や製材所(木工)、ガラス製造所などが所在し、ものづくり産業が盛んな地区でした。この頃は、製陶業(せいとうぎょう)も含めて各地から技術者を招き、産業の近代化が推し進められていました。近代化の象徴である耐火レンガの使用は、将来ものづくり産業の一翼(いちよく)(にな)う子供たちを育成する小学校にもその波が及んでいたことを示し、近代富山の産業史や教育史をひも解く上で貴重な発見となりました。
 
 
富山城跡【本丸地内】
旧県会議事堂跡 明治42年から昭和20年
富山城址公園西ノ丸広場の南寄りで、明治42年に完成した 洋風建築物の土台(基礎)部分が平成22(2010)年に発掘されました。建物は明治42年に皇太子(のちの大正天皇)が富山行啓(ぎょうけい)の際の宿泊所として使用した後、県会議事堂として利用されます。大正7年6月には渋沢栄一の講演会が催されています。さらに昭和10(1935)年から「大正会館」となり、会議場や図書館などとして使用されました。建物は昭和20年8月の富山大空襲で焼失しました。
 
旧県会議事堂   発掘されたレンガ基礎
(現地に一部保管、展示中)
本館と附属建物(湯沸所・ボイラー室)からなり、本館のレンガ積み基礎部分(イギリス積み)やボイラー室のレンガ積み遺構がみつかりました。ボイラー室に用いられていた「AISANTAIKA」と刻印のある白レンガ(厚さ6.0cm、幅11.0cm、長さ23.0cm)は、愛知県高浜市周辺の「愛三(あいさん)土管(どかん)煉瓦(れんが)同業組合」に所属していた会社によって生産されていたようです。赤レンガは小矢部市の石黒商店(石黒煉瓦工場)で生産されていたことが『小矢部市史下巻』(1971年)に紹介されています。
刻印のある耐火レンガ
(表面の格子目は、レンガを重ねて積む際、間に
はさむモルタルがつきやすくするためのもの)
 
レンガ積み溝跡(みぞあと) 大正後期から昭和初期
郷土博物館北側で平成24年の城址公園整備工事中に、東西方向に延びるレンガ積みの溝跡を確認しました。公園内では、赤レンガ積みの溝跡や管路を確認していますが、ここでは延長5m分のみ黒レンガ(鉱滓レンガ・厚さ6.0cm、幅9.5cm、長さ21.5cm)を長手積(ながてづ)みにしていました。溝の補修用に用いられていたようです。
鉱滓レンガは、金属の製錬の際に生じるスラグを用いて製作されます。当時、鉱滓を集めてレンガを生産できるほど、県内で鉄鋼に関連したものづくり産業が盛んだったことを物語っています。
一部黒レンガ積みの溝跡
(鹿島)
※令和4(2022)3月18日から7月18日安田城跡資料館ミニ企画展「ア・MEIJI・ングな富山のレンガ」リーフレットより


 
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