富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
Board of Education,Toyama City
 
幻の東京オリンピック(1940)
記念陶磁器
 

出土した酒盃(左上の完形品のみ伝世品)
平成28年度に富山市総曲輪三丁目地区市街地再開発事業(旧富山西武デパート跡隣接地)に伴い、発掘調査を実施したところ、近代の土坑などから大量の酒盃(破片で約4500点)が出ました。
その中に昭和15年に開催される予定でした「幻の東京オリンピック」の記念酒盃が含まれていました。
当時、このような記念陶磁器について、どのような種類の製品が製作されていたのでしょうか。
 
【幻の東京オリンピックとは】
昭和15(1940)年に開催される予定でした第12回オリンピック大会は、昭和11年7月の国際オリンピック委員会(IOC)総会で東京での開催が決定しました。
しかし、同12年7月の盧溝橋事件(日中戦争)勃発を受け、同13年7月に中止が決定、IOCに開催を返上したことから、幻のオリンピックと呼ばれます。
 
 
幻の東京オリンピック記念陶磁器
総曲輪三丁目の発掘調査区内から昭和前期(戦前)の酒盃(猪口)が大量に出土しました。調査地には富山大空襲前まで「太田陶器店(太田商会)」がありました。出土した酒盃の種類には、兵隊盃、記念盃、印物(店名や商品名を印した酒盃)、吉祥文盃(七福神や鶴亀など)などがあります。オリンピック記念盃は銘文と図柄を彫り込んだ型で成形され、「ORINPIKU」・五輪マーク・日章旗・桜花文の絵がみえます。口径5.5cm、底径2.1cm、高さ3.0cmを測ります。出土した酒盃のほとんどが、岐阜県多治見市市之倉で生産された「美濃焼」と判明しました。
オリンピック開催を記念して「OLYMPIC」のロゴや五輪マークを記した手拭い、灰皿、ネクタイなど様々な品が製作・販売されました。五輪マークやロゴを商標としたグッズは二百数十件もあり、オリンピック東京大会の機運の盛り上げや宣伝に一役買っていました。
 
そのような中、美濃の陶器商がオリンピックを記念したオリジナルの商品を創作し、東京をはじめ全国各地に出荷していたようです。しかし、当時は商品カタログのようなものはなく、美濃の陶器商がカバンに見本品を携え、各地を営業していたようで、どのような種類(器種)のものが製作されていたのかは不明でした。
記念陶磁器
開催決定から中止決定までのほぼ2年間に限定して製作・流通した「幻の東京オリンピック記念陶磁器」の実態に迫ります。
 
 
記念陶磁器の種類
記念陶磁器「湯呑み」 五輪のマークなどが描かれている
酒盃が発掘された後、これまでに確認できた幻の東京オリンピック記念陶磁器(伝世品)は、6器種あります。(1)酒盃(2)湯呑み(3)注口容器(4)向付(5)皿(6)飯碗です。
「伝世品」とは製作当初から土に埋まることなく大事に使用・保存されてきた品のことを言い、「出土品」(発掘品)に対する言葉として用いられます。
ここでは、記念陶磁器のうち特徴的な3器種について解説します。
参考文献:鹿島昌也2020「「幻の東京五輪」記念陶磁器考」『富山市考古資料館紀要』第39号
 
(1)酒盃
内面に絵付けや印のあるものとないもので@からBに細分できます。いずれも多治見市市之倉産です。同市小名田町に所在した陶器商「堀江商会」の昭和12年出荷帳(多治見市立図書館蔵)に「オリンピック中丸盃」が東京方面に出荷された記載があります。
@無地 内面に印がないもので、各地の陶器商などで販売されたものです。富山では売薬進物用として売薬人が購入し、配布された可能性があります。
A印物 印物(しるしもの)とは製品に注文主の店名や商品名・商標などを入れて、年暮れや年初めの挨拶、開店の挨拶用にお客さんに配布するための品です。「宣伝盃」とも呼ばれ、今でいう企業が会社や商品の宣伝用にそれらの名前を入れて無料配布する「ノベルティーグッズ」にあたります。
B凱旋記念盃 「兵隊盃」ともよばれ、鉄兜・旭日旗・桜が上絵付けされています。日中戦争との関連で製作されたと推測されます。
 
(3)注口容器(汁次)
蓋と注ぎ口の付く本体に分かれます。全体の高さは9.0cmを測ります。蓋の表面には5つの輪を横方向に1直線に連ねて浮き彫りにした文様が付され、五輪マークをイメージしたものとみられます。
本体にはトーチ(聖火)に見立てられた注ぎ口が付き、トーチを持つ人の手が本体側面に張り付いています。本体側面には1940(西暦)と2600(皇紀)の数字と日の丸が浮き彫りされています。醤油さしなど汁物容器と推測されます。
岐阜県土岐市下石(おろし)産とみられ、多治見市「堀江商会」出荷帳には「オリンピック汁次」という商品名が多く登場し、これに相当するものとみられます。
この容器とよく似た意匠の湯呑みが東京都の『昭和館』に所蔵され、また福島県相馬市大森遺跡から「1940」「五輪マーク」入り湯呑みの破片が出土しています。
底部に店名や商品名など「印」が入ったものもあります。今のノベルティーグッズのようです。
参考文献:(財)福島県文化センター1995『鷲塚B遺跡・鷲塚C遺跡・大森遺跡』
 
(6)飯碗
外面に五輪マークや桜花文、花弁などが印判されています。注目されるのは、底部外面に「岐119」の統制番号が付されていることです。この番号は、昭和16年から昭和21年に国の統制・管理下で生産・販売された陶磁製品に付される生産者別識別表示記号です。昭和13年にオリンピックの中止が決定した後にも五輪マークなどをモチーフとした製品が製作されていたことを示す興味深い資料です。
底部に「岐119」
 
 
記念陶磁器の生産と流通-酒盃を例に-
美濃焼は、明治維新後いち早く欧米の技術を導入し、大量生産体制を整え、国内向けの日用食器のシェアでは、磁器産地として有田や瀬戸をしのぐ勢いがありました。近代の美濃焼の生産の特徴として「地域的分業生産」があり、旧村単位で生産する品種を分ける体制が整えられていました(市之倉の酒盃、下石の燗徳利、駄知の丼、笠原の飯碗、高田の貧乏徳利など)。
各地域内で生産された美濃焼は、多治見に店を構える陶器商(産地問屋)へ集められ、全国へと出荷されました。その流通にはおおむね3つの系統があることが分かってきました。
 
A系統
産地問屋(多治見)→消費地問屋(各地)→消費地の小売店(せともの屋)美濃焼流通の主なものはこの系統で全国に出荷されます。
B系統
「印物屋」と呼ばれる陶器商による流通で、店名や商標などの「印」を入れた陶磁器「印物」に特化し、酒屋など陶磁器を専門としない小売店(せともの屋以外)を得意先とします。現代のノベルティーグッズに通じるものです。
C系統
富山の陶器商が売薬人向けに商品を扱っていた「売薬進物商」へ商品を卸す系統です。昭和前期には富山市内に20軒以上の「売薬進物商」が営業し、薬を多く購入する上得意向けの進物(おまけ・土産品)として酒盃を仕入れていました。総曲輪三丁目の陶器商跡から出土したオリンピック記念酒盃は、この系統で配られるために仕入れられていた可能性があります。
参考文献:鹿島昌也・春日美海2020「美濃焼(多治見九谷)酒盃流通の一系統」
『日本考古学協会第86回総会研究発表要旨』日本考古学協会
 
美濃焼酒盃の流通模式図(鹿島昌也・春日美海2020の図から抜粋)
(鹿島)
※令和3(2021)年7月22日から9月26日富山市民俗民芸村考古資料館・富山市埋蔵文化財センターミニ企画展
「幻の東京オリンピック(1940)記念陶磁器展」リーフレットより


 
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