富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
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下呂石げろいし
 

 
飛騨南部の湯ヶ峰に産出する下呂石は、鋭利な剥片石器の原材料として、神通川をメインルートとして富山平野に持ち込まれた。
 
富山では、これまで下呂石を「ハリ質安山岩」「ガラス質安山岩」と呼ぶことが多く、下呂石と同定した調査研究は少ない。このため、飛騨・美濃を中心とした下呂石研究において、越中への分布状況は十分に把握されていなかったといえる。
 
近年、下呂石の搬入経路である神通川流域の発掘調査等が進み、下呂石の分布状況が次第に明確になってきている。今回確認した遺跡数は60を越える。原石と石器製作の視点を中心に、富山における下呂石の搬入状況を概観する。
 
下呂石
 
 
旧石器時代
富山に下呂石が最初に持ち込まれたのは、ナイフ形石器文化期である。神通川扇頂部の右岸高位河岸段丘にある史跡直坂遺跡(直坂T遺跡)・直坂U遺跡では、小形ナイフ形石器やスクレイパー等少数の石器のほか、わずかに剥片が認められる。このことから、下呂石による石器製作が細々と開始されたことがわかる。石器や剥片は、横長剥片を主体とし、明確に瀬戸内系の剥片剥離技術を示すものは現在のところ見当たらない。原石の形状も不明である。
 
庄川上流域の立野が原周辺においても、南原C遺跡などで石器石材に下呂石がみられる。これらは神岡から西方に山越えするルートで搬入されたものであろう。
 
 
縄文時代
縄文草創期には、県内各所で尖頭器・有舌尖頭器の石材に使われる。小矢部市臼谷岡ノ城北遺跡では、まとまって出土した有舌尖頭器17点中1点(6%)が下呂石である。
 
縄文早期以降中期までは、石鏃・石錐・石匙の3種類の剥片石器に下呂石が多く使われ、その数量も増える。また剥片・石核も増加する。このことから、原石の搬入量が増え、石器製作量も増加したことがわかる。
 
石器数量では、神通渓谷部の布尻遺跡、呉羽山周辺の丘陵部にある北代遺跡・平岡遺跡・二本榎遺跡で、石鏃を中心に石器量が爆発的に増える。これらの遺跡は前期後半と中期後半が主体となる遺跡で、神通川からやや離れた丘陵部の遺跡に多いことが特徴といえる。
 
原石の形態には、節理面を残す角礫と、摩滅した面をもつ亜角礫がある。中期の布尻遺跡の原石は、亜角礫の角に爪状の剥離が生じて摩滅していることから、河川上流部における河川転石であることを示している。握り拳大の原石多数のほか、20cmを越える大形品に復元されるものがあり、大小の原石が大量に搬入されたことを示している。後期から晩期には、石器数量が激減するとともに、石鏃に限って使用する。
 
 
弥生時代
弥生時代の石鏃に使用される例があるとされるが、未確認である。飛騨で弥生時代の使用例があるため、この情報は信憑性が高い。
 
 
まとめ
湯ヶ峰から富山までは約100km距たるが、飛騨以北、特に神通川流域においては、縄文前期・中期に本格的に大量の下呂石が搬入・消費された。その物量は、同時期の富山に流通した諏訪産黒曜石の量をはるかに越えるものであったかもしれない。これまで産地から100km以上距たると搬入量は減っていくといった傾向が示唆されてきたが、飛騨を含めた神通川流域ではやや傾向を異にし、相当量の流通があったといえる。
 
富山ではチャート・メノウ・輝石安山岩など在地石材も多様に存在している。その中にあって、下呂石の搬入がいつどのような形で始まり、需要の高まりと消長のようすなど、具体的な分析はこれからの課題である。
(古川)
下呂石分布図
下呂石分布図
(岩田修氏の図をもとに岐阜市歴史博物館・富山市埋蔵文化財センターが加筆修正)


 
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