シリーズ縄文講座(20)
神通川と遺跡(1)
-呉羽丘陵北端部の地形形成過程を探る-
 
神通川は、かつて多くの流路がありました。それらは現在、周りと同じように平坦になっていますが、近年の発掘調査を通じ、かつての神通川(旧流路)と遺跡を残した人々とのつながりが垣間見えてきました。

呉羽丘陵北端部(神通川左岸の河岸段丘)に立地する百塚住吉遺跡と百塚遺跡では、北陸最古段階の前方後円墳を含む弥生時代後期後半(約1850年前)から古墳時代前期前半(約1750年前)の墓が密集して見つかり、話題となりました。これらの墓の盛土には縄文土器や石器などが含まれていました。このことは、当地が縄文人の活動の場であったことを示すものです。北から百塚住吉遺跡、百塚遺跡の順で隣接し、弥生時代後期から古墳時代前期の地表面は、南に行くほど高くなります。

百塚遺跡の北半部(牛ヶ首神社以北)で墓が確認された地層(黄褐色砂質土:厚さは約120cm)の下には、縄文時代後期後半から晩期後半(約3500年から2300年前)の土器などを少量含む黒色土(厚さは最大で約60cm)があり、その下に丘陵の基盤土(黄褐色粘土)がありました。
百塚遺跡ミニ企画展資料(PDF、272K)

これに対し、百塚遺跡の南半部で墓が確認された地層は、表土直下にあった丘陵基盤土でした。南半部に築かれた弥生時代後期の墓の墳丘盛土の真下には、北半部と同様の厚さの黒色土層が当時のまま堆積していたことから、この墓以外の部分の黒色土は後世の土地利用のなかで削平されたことがわかりました。つまり、南半部では北半部で確認された黄褐色砂質土が存在しなかったのです。

百塚遺跡の北半部以北にのみ黄褐色砂質土が存在するのはなぜなのでしょうか。この謎を解くため、発掘調査では百塚遺跡北半部の堆積土壌について、軟X線写真から土壌の微細構造を解析してその成因を推定し、土壌に含まれる花粉などから当時の植生を調べ、土壌の放射性炭素年代測定などを行いました。
百塚遺跡北半部以北の地層の形成過程
考古学と自然科学の成果を総合すると、百塚遺跡北半部以北における丘陵基盤土より上の地層は次の形成過程を経たことがわかりました。
(1)黒色土壌の形成(縄文時代)
丘陵基盤土が植生に覆われることで、黒色土壌が発達しました。
縄文時代後期後半から晩期後半の土器などを少量含む黒色土層は、約7000年前(縄文時代早期)以前から形成が始まりました。百塚遺跡北半部では後期後半から、百塚住吉遺跡では晩期後半に縄文人の活動の場となりました。縄文時代後期後半から晩期後半にはクマザサやアカガシなどが生育していました。
百塚遺跡南半部では、縄文時代後期後半から晩期前半以前にも、早期末から前期(約6000年前)、中期中葉(約4500年前)、後期初頭(約4000年前)に縄文人の活動の場となりましたが、居住の証拠となる竪穴住居は確認されていません。
竪穴住居は確認されていませんが、縄文土器や石器の出土量が増す後期後半から晩期にかけて、百塚遺跡や百塚住吉遺跡で集落が形成されたと想定できます。
 
(2)旧神通川からの土砂供給(縄文時代後期から弥生時代後期)
百塚遺跡北半部とその以北(百塚住吉遺跡、百塚住吉B遺跡)に、丘陵東側を流れる旧神通川から黄褐色砂質土が供給されました。百塚遺跡北端では約120cmの堆積を確認しているので、百塚住吉遺跡と百塚住吉B遺跡ではさらに厚く堆積したと推定できます。
百塚遺跡北半部では、黄褐色砂質土下部に縄文時代後期後半から晩期後半の土器が含まれており、なかには大型の破片や残り具合が良好なものもありました。川のなかで磨耗したと考えられる破片がなかったことから、黄褐色砂質土は洪水によって一気に堆積したのではなく、たびたび生じた増水時に供給され、数千年の時間をかけて厚く堆積したことがわかります。旧神通川の水量が安定したのは、百塚遺跡や百塚住吉遺跡で墓が築かれ始めた弥生時代後期後半でした。
 
縄文人が多く活動した呉羽丘陵北端部では、縄文時代から弥生時代にかけてこのような地形形成の歴史がありました。土壌学的な所見を加味することで、考古学だけではわからない地形形成の歴史にも迫ることができるのです。地域の豊かな歴史像を復元するには、自然科学分析を活用しながら遺跡を発掘調査し、考古学の成果と総合することが欠かせません。
 
参考文献
富山市教育委員会 2009年 『富山市百塚住吉遺跡・百塚住吉B遺跡・百塚遺跡発掘調査報告書』

富山市教育委員会 2012年『富山市百塚遺跡発掘調査報告書』