富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
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古墳時代
 

 
弥生時代後期から順調に増加した集落は、古墳時代前期(約1750から1700年前)になると減少します。王塚・千坊山遺跡群では、丘陵眼下の鍛冶町かんじゃまち遺跡など古墳時代前期の集落遺跡が確認されています。また、北陸の代表的な大型前方後方墳である勅使塚ちょくしづか古墳・王塚おうづか古墳が、羽根はね丘陵の尾根(標高130m、平野との比高約100m)に、相次いで築かれました。
一方、羽根丘陵の北にある呉羽丘陵北端(百塚住吉ひゃくづかすみよし遺跡など)では、勅使塚古墳と同時期に小型前方後円墳が築かれました。

中期(約1600年前)には、全長約41mの前方後円墳である古沢塚山ふるさわつかやま古墳が呉羽丘陵南部(標高86m・平野との比高58m)に築かれます。この時期には境野さかいのしん遺跡など、いくつかの集落が呉羽丘陵西側に営まれます。
土師器 (境野新遺跡1号住居)
土師器 (境野新遺跡1号住居)
 
 
古墳時代の王墓 -勅使塚ちょくしづか古墳・王塚おうづか古墳- 
羽根丘陵の王墓は、弥生時代は四隅突出型墳丘墓でしたが、古墳時代前期前半には大型前方後方墳へと変化しました。

最初に築かれた王墓は全長66mの勅使塚古墳です。前期前半の前方後方墳としては日本列島で10番目位、日本海沿岸では第1位の規模となります。

勅使塚古墳は、全長66mながら、約10mの高い後方部を有しています。続いて築かれた全長58mの王塚古墳も、後方部を高く築く点は受け継がれています。全長約108mの氷見市柳田布尾山やないだぬのおやま古墳は、勅使塚古墳より新しいですが、日本海沿岸で最大の前方後方墳です。勅使塚古墳は、柳田布尾山古墳の半分強の長さしかありませんが、後方部の高さはほぼ同じです。

美濃と比較しても、全長115から140mの大型前方後円墳(琴塚ことづか古墳(全長115m)・ぼうつか古墳(全長120m)・昼飯大塚ひるいおおつか古墳(全長140m))の後円部の高さとほぼ同じです。美濃の全長100m未満の古墳と比べると、勅使塚古墳・王塚古墳の方が後方部が高いといえます。

一般的に、古墳の大きさや被葬者の階級が示されたと考えています。大きな古墳ほど、その被葬者は権力を持っていたと理解されています。このようななか、羽根丘陵の王墓、特に勅使塚古墳は高い後方部を持っており、高さが重視されたと考えられます。このような墓造りは、弥生時代の四隅突出型墳丘墓の頃からの伝統であり、これらの集団は一貫して王墓の高さを権力の象徴にしたと考えれれます。
土師器 (勅使塚古墳)
土師器 (勅使塚古墳)
 
 
北陸最古級の前方後円墳・前方後方墳 -百塚住吉ひゃくづかすみよし遺跡・百塚ひゃくづか遺跡-
百塚住吉遺跡航空写真
百塚住吉遺跡
航空写真
羽根はね丘陵で勅使塚古墳が築かれた頃、呉羽丘陵北端の百塚住吉遺跡・百塚遺跡では、小型前方後方墳や小型前方後円墳(全長25m程度)などが多数築かれました。羽根丘陵よりも海岸に近く、日本海や神通川を通して新しい情報を得やすいこともあって、さまざまな形の古墳が築造されたと考えられます。

特に、百塚住吉遺跡の2基の小型前方後円墳は、北陸最古級の古墳です。百塚住吉遺跡・百塚遺跡の古墳群の盛土はすでに失われていましたが、被葬者ひそうしゃが身に着けていた管玉くだだまや副葬された鉄鏃てつぞく、埋葬後に供えられた土器などが出土しました。
百塚住吉遺跡・百塚遺跡のような、後円部(後方部)のみ深い周溝しゅうこうをもつ墳墓は会津あいづ盆地で確認されています。会津盆地では、新潟や富山の影響を受けた土器が多く出土することから、両遺跡を残した集団から新しい墓造りの情報が伝えられたと考えられます。
 
 
後期の古墳群
呉羽丘陵では、後期前半(約1450年前)に全長約20mの前方後円墳である呉羽丘陵26号墳が築かれました。これを最後に、前方後円墳の築造は終了します。
その後、飛鳥時代にかけて、番神山ばんじんやま横穴墓群・金屋陣かなやじんあな横穴墓群など、多くの古墳が築かれました。番神山横穴墓群中にあった呉羽山古墳(横穴式石室墳、現在は消滅しています)からは装飾付大刀(金銅装こんどうそう頭椎大刀かぶつちのたち:戦災で焼失)が出土しており、古墳群を造った集団のリーダーの墓と考えられます。横穴墓から出土した多量の須恵器は、飲食物を入れて被葬者に供えられたものです。
須恵器 (番神山横穴墓群)
須恵器 (番神山横穴墓群)
この時期には、呉羽丘陵で須恵器が生産されるようになりました。金屋陣の穴横穴墓群の北東約800mには、センガリ山窯跡があります。金屋陣の穴横穴墓群を残した有力集団がいたことで、富山市域での最古の須恵器窯がこの地に開かれたと考えられます。
 
 
古墳時代の集落
古墳時代前期後半に営まれた八町はっちょうU遺跡では、畿内きないきない系土器がまとまって出土したほか、山陰や東海の影響を受けた土器も出土してることから、呉羽丘陵北部の中核的な集落と考えられます。

中期前半(約1600年前)の集落では、井戸を廃棄はいきする時に、稲藁いなわらなどを入れた土器を井戸底に供え、滑石かっせき製の玉をばらまく儀礼を行っていました。井戸の神様に、それまでの水の恩恵おんけいに対する感謝の意を表したのかもしれません。
井戸底の土器の出土状態
井戸底の土器の出土状態
(八町U遺跡)
 
 
最古の須恵器
最古の須恵器
神通川沿いにある鵜坂うさかT遺跡からは、後期前半の須恵器(壺・坏)が出土しました。この頃は須恵器の流通量が少なく、宝物的な意味がありました。遺跡は延喜式内社えんぎしきないしゃの一つ、鵜坂神社に隣接しています。


 
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