富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
Board of Education,Toyama City
 
概 要
 

 
富山市は、飛騨を分水嶺として日本海側へ流れ込む神通川が、飛騨の渓谷部を抜けると、広大な富山平野を形成します。富山平野の西側には呉羽丘陵・羽根丘陵・射水丘陵とよばれる丘陵地形が発達しています。

120kmの延長をもつ神通川は富山湾に注いでいます。その河口の海岸部には砂丘が発達し、内陸側には潟湖(古放生津潟)が形成されました。

富山市は3000m級の山岳部から海岸に至る、全国で最も高低差のある市域をもち、その範囲は富山県の3分の1にも及んでいます。
 
 
旧石器時代
富山平野を貫流する神通川流域から、富山最古の人類史が始まりました。史跡直坂遺跡は、約3万年前の旧石器時代に始まり、中部高地系の旧石器文化が富山にもたらされたことを示します。その後、東北日本の石刃技法、西日本の瀬戸内技法など、周囲の多様な石器文化が流入しました。
 
 
縄文時代
富山市の縄文文化は、約6000年前をピークとした縄文海進の時代に大きな展開をみせます。最大規模となった放生津潟の縁辺では、蜆ヶ森貝塚・小竹貝塚など汽水性のヤマトシジミを主体とした貝塚が営まれました。潟で採取される大量のシジミ貝を加工した遺跡で、小竹貝塚の規模は日本海側最大級です。また蜆ヶ森貝塚の土器は、「蜆ヶ森式」として縄文前期北陸の基準資料となっています。

丘陵地帯に展開した中期の集落遺跡群は、呉羽丘陵の史跡北代遺跡、射水丘陵の開ヶ丘狐谷V遺跡などにみるように、東日本特有の円環状の集落構造をもち、また大型竪穴住居・大型掘立柱建物を伴っています。史跡北代遺跡では、土屋根住居と高床建物による集落群を復元し、北と南の文化の融合を示しています。

直坂遺跡出土の人面付き土器は、顔の表現が信州、土器文様が北陸の特徴をもつ両地域の文化の融合を示し、北代遺跡や花切遺跡のタカラ貝形土製品の文化は、飛騨や岐阜に波及しました。

晩期の浜黒崎野田・平榎遺跡の土版に付けられた文様は、縄文人が高度な数字処理を行っていたことを示すものとして注目されています。
 
 
岐阜とのネットワーク
岐阜地域とのつながりを示す遺物は、広域なネットワークをもっていた縄文時代において顕著にみられます。飛騨南部に産出する下呂石は、主に神通川を経由して富山へ運ばれました。神通峡の布尻遺跡では大型の河川転石が持ち込まれ、加工して石器生産を行っていました。また丘陵部の集落からは、下呂石製の石鏃が大量に出土します。加工しやすく鋭利な特徴が好まれ、大量に生産・消費が行われたとみられます。下呂石の搬入はすでに旧石器時代から始まり、縄文前・中期にそのピークを迎えました。

富山県東部から糸魚川にかけて産出・採取されるヒスイ・蛇紋岩は、玉・磨製石斧の材料として、製品あるいは原石の形で周辺地域に広域に流通しました。下呂石とは逆に、神通川をさかのぼって岐阜地域にももたらされました。
 
 
弥生・古墳時代
弥生時代後期には、呉羽丘陵最高峰城山の白鳥城跡で高地性集落が営まれ、倭国全体の軍事的緊張が北陸にも及んでいたことを示しています。また同じ頃呉羽丘陵・羽根丘陵において特異な形の四隅突出型墳墓が出現し、出雲との関係を持った首長墓が現れます。それはやがて前方後方墳に発展し、勅使塚古墳・王塚古墳という婦負地域の首長墓を生み出しました。
 
 
古代
古代の富山市域は、越中四郡のうち婦負郡・新川にいかわ郡に属しました。呉羽・射水丘陵地帯では製陶・製瓦・製鉄・製炭・鋳造等の生産遺跡が集中的に形成され、国郡の管理下で経営されたと考えられています。特に製鉄は、窯の数からみて莫大な生産量であったとみてよく、中央政府が東北経営における鉄原料の補給地としたとする説もあります。

古代官衙かんが遺跡として、神通川河口部の米田大覚よねだだいかく遺跡は平安期の新川郡家にいかわぐうけ、常願寺川河口部の水橋荒町みずはしあらまち辻ヶ堂つじがどう遺跡は古代北陸道水橋駅家みずはしうまやと推定されています。米田大覚遺跡南方1.5kmにある豊田大塚とよたおおつか中吉原なかよしわら遺跡では、平安期の人面墨書じんめんぼくしょ土器など祭祀さいし遺物が出土し、郡衙ぐんがの祭祀場と考えられています。


 
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