富山市埋蔵文化財センター Center for Archeological Operations,
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古 代
 

 
飛鳥・奈良・平安時代になると、神通川中流域両岸の任海とうみ友杉ともすぎ周辺や婦中町砂子田すなこだ中名なかのみょう周辺、市北部の豊田とよた米田よねだ周辺、常願寺川じょうがんじがわ河口部かこうぶ水橋みずはし地区、西の射水いみず丘陵に遺跡が集中します。遺跡数は増加します。古代の郡域ぐんいきでは婦負ねい郡と新川にいかわ郡の西端部、射水郡の東端部が該当します。

近年の発掘調査により、大規模な集落遺跡や官衙かんが関連遺跡、窯業ようぎょう生産遺跡などが数多く検出されています。飛鳥・奈良時代に集落が出現し、平安時代に繁栄する遺跡が多くなります。
 
 
大集落の形成
平安時代の大規模な集落遺跡の代表として任海宮田とうみみやた遺跡があります。7世紀後半から10世紀前半の集落遺跡で、これまでに竪穴住居約200棟、掘立柱ほったてばしら建物20棟、礎石そせき建物1棟、土師器焼成はじきしょうせい遺構などが検出されました。

約810点にも及ぶ墨書ぼくしょ土器(文字内容は約80種)、仏鉢、鐘鈴しょうれい銅椀どうわんなど仏教関係遺物、灰釉かいゆう陶器、緑釉りょくゆう陶器、円面硯えんめんけん、鳥形須恵器、石帯の帯飾りなどが出土しています。「墾田こんでん」などの墨書土器の出土などから、神通川左岸の開発に携わった領主クラスの集落と推測されています。また、「城長」と書かれた墨書土器が多数出土しています。「城長」は人名や役職名などと考えられます。

周辺の南中田D遺跡や吉倉B遺跡、左岸の中名T・X遺跡等を合わせると400棟もの建物が神通川両岸の扇状地に形成されていたわけです。
墨書土器「城長」 任海宮田遺跡
墨書土器「城長」 任海宮田遺跡
 
 
官衙かんが関連遺跡
米田大覚よねだだいかく遺跡は、9世紀中頃を中心とする官衙関連遺跡で、「新川郡家にいかわぐうけ」に比定されています。検出された掘立柱建物32棟は4つの建物群に分けられ、南の一群が郡庁域ぐんちょういきと推定されます。正殿せいでん脇殿わきでんが確認され、左右非対称ひたいしょうの配置を示しています。

郡庁域からは208点に及ぶ墨書土器や、緑釉陶器、灰釉陶器、石帯の帯飾り、風字硯ふうじけん、陶製のます斎串いぐしなどの祭祀さいし遺物が出土しています。

一方、常願寺川河口の8世紀から9世紀に営まれた水橋荒町みずはしあらまち辻ヶ堂つじがどう遺跡は、古代北陸道「水橋駅」比定されています。
墨書土器・斎串・石製の帯飾り 米田大覚遺跡
墨書土器・斎串・石製の帯飾り 米田大覚遺跡
 
 
祭祀さいし関連遺跡
祭祀関連遺跡としては、9世紀後半の豊田大塚とよたおおつか中吉原なかよしわら遺跡があります。人為的に掘られた水路からは、人面墨書じんめんぼくしょ土器や斎串、人形ひとがた、「×」と書いた墨書土器などが出土しました。人形には人名とみられる「神服かみはとり小年賀こねんが」と墨書がありました。遺跡は平安期の新川郡家(米田大覚遺跡)の祭祀場の一つと推測されています。
人面墨書土器・人形 豊田大塚・中吉原遺跡
人面墨書土器・人形
豊田大塚・中吉原遺跡
 
 
生産関連遺跡と村落寺院生産関連遺跡と村落寺院
呉羽丘陵から射水丘陵にかけては、製陶・製鉄・製炭などの古代の一大窯業ようぎょう生産地帯の形成がありました。

婦負郡域に位置する呉羽丘陵西側の斜面では、7世紀後半に県史跡金草かなくさ第一だいいち古窯こようが操業されていました。近くには古沢窯ふるさわかま群があり、8世紀中頃を中心に10基以上の須恵器窯が営まれていました。

一方、古沢窯群から南西3kmに位置する境野新扇状地扇頂部でも、7世紀後半に平岡窯ひらおかがまが操業されました。その近くでの向野池むかいのいけ遺跡では、9世紀中頃に土師器焼成を行っていました。

この遺跡では、三面廂さんめんひさし付き大型掘立柱建物(6間×2間)を中心とした、掘立柱建物群や井戸などが存在し、井戸からは焼成に失敗した瓦塔がとうが出土しました。

周辺に生産遺跡が多いことから、大型建物は、律令体制下における郡の役所「郡雑器所ぐんざっきしょ」と呼ばれる、容器類の生産管理に関わる施設ではないかと推測されます。
瓦塔が出土した井戸 向野池遺跡   瓦塔 向野池遺跡
瓦塔が出土した井戸 向野池遺跡   瓦塔 向野池遺跡
一方、射水郡域に立地する9世紀前半の明神みょうじん遺跡V地区では、須恵器窯周辺から須恵質の瓦塔が出土しました。向野池遺跡と異なり、登り窯で焼成していたことが分かります。

呉羽丘陵北部の長岡杉林ながおかすぎばやし遺跡では、瓦塔や火舎かしゃと見られる緑釉獣脚じゅうきゃくが出土しました。井戸の脇に小さな仏堂を建て、そこに瓦塔をまつったと推測されます。

射水丘陵に位置する開ヶ丘中ひらきがおかなか遺跡は、須恵器生産に携わった工人こうじん集落と考えられます。その集落の最奥部には雨落ち溝をもつ礎石そせき建物があり、その付近から土師質の瓦塔が出土しました。山寺やまでら的な性格の仏堂ぶつどうに瓦塔を納めたと推測されます。

消費地においてはこのように、集落ないの一角に設けた仏堂、いわゆる村落内寺院に瓦塔が置かれた例が多くみられます。吉倉よしくらB遺跡や任海宮田遺跡からは「柴寺」や「観音寺」と書かれた墨書土器が出土していますが、瓦は見つかっていません。北陸は湿気を含んだ多雪地帯でもあるために、重い屋根瓦をく古代寺院は多くありません。その代わりに瓦塔などを祀る仏教文化が浸透していたと考えられます。


 
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