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mark.gif 第三十一号
平成11年7月13日
●収蔵品紹介  ●越中富山の船橋 その後



収蔵品紹介
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『富山名所  神通橋』

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 富山の名所を描いた色刷版画で、明治42年に発行されました。全部で12種あり、これはその内の1枚で、旧神通川の左岸から神通橋を眺めたものです。右上には別枠で長岡御廟(ごびょう)も描かれています。

 前二号にわたり、富山の船橋についてご紹介しましたが、今回は船橋のその後についてお話しましょう。上の「富山名所図」は、前号に掲載の「二十四輩巡拝図絵(にじゅうよはいじゅんぱいずえ)」と同じ方角から見た景色なのです。この橋は、決して現在の神通大橋のことではありません。架かっていた場所が全く違うのですから…


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 名勝として全国的に知られた富山の船橋は、旧神通川(じんづうがわ)(松川はその名残)に架かっていた橋で、船と板と鎖によって造られていました。この船橋は、写真が残っていることからも分かるように(「博物館だより第29号」掲載)、明治の世になっても残っていたのです。明治11年の北陸東海御巡幸の際にも、明治天皇は板輿に乗って船橋を渡りました(「博物館だより第15号」参照)

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船橋は、浮橋で危険性が高かったことから川へ落ちて水死する人も多く、また管理上も不便なものでした。そのため、人々は木橋への架替えを強く願っていました。そして遂に明治15年12月、長い歴史を持つ船橋は「神通橋」という木橋に架け替えられたのです。長さは127間(約231m)、幅は4間(約7.2m)で、工費は25,847円でした。翌年1月には渡橋式が行われています。神通橋への架替えによって、右岸・左岸相互の連絡は一層便利になりました。

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3108.jpg 明治16年 1月28日の渡橋式の際には、たくさんの人々が集まりました。式後、人々が競うように橋の両側から一斉に渡り始めたため、真ん中でどちらも譲り合わずに衝突し、押しつぶされたりして多くのけが人が出たのです。とにかく、すごい人出で、後には橋上にたくさんの下足が残されていたそうです。
神通橋

u026cut.gif 明治27年、神通橋は架橋からわずか12年目にして架替えられました。木造であったこと、更には大水が度重なったことにより、傷みが早かったのでしょう。この際に幅を4尺(約1.2m)広げて、28尺(約8.5m)としました。

u026cut.gif 明治30年から3ヶ年継続事業として、神通川の川幅拡張工事が行われました。洪水による被害を少なくするためです。これに伴い、同31年に神通橋も28間(約51m)延長され、155間(約282m)となりました。

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3111.jpg 神通橋は、何度も流出の危機に遭っています。そんな時、どのようにしてそれを防いだのでしょうか。水量が増えてきて、いよいよ流されるかもしれない!そんな時には、橋の上に河船や酒造用の大樽を並べて、そこへポンプを使って水を送り込みました。すると、それが重しとなってなって橋の流失を防いでくれたのです。
(前号の「船橋の危機」と比べてみてください)
大正2年富山市街図(部分)
矢印で示してあるのが神通橋。
堀に囲まれているのが、現在の城址公園。(上が北)

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さて、当時の神通川は安野屋(やすのや)町辺りから蛇行して、富山城の北側を通っていました。しかし、これでは水害があまりに多いため、バイパスを造りました。これが馳越線(はしこしせん)といわれるもので、現在の神通川の川身にあたります。さて、この馳越線が出来たことによって元の流路にはほとんど水が流れなくなってしまいました。そこで、大正10年旧線と新線の間は堤防で仕切られることになり、旧流路は廃川地(はいせんち)となりました。

これに伴い、神通橋は廃止となり、木橋は取壊され、跡には土提が造られました。その後、旅館富山館を営んでいた高沢藤吉が発起人となって、土提の西片側に二階建てで二階が道路の高さになった木造バラック商店30軒余りが建てられました。これを船橋売店といいました。

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上の2点の版画は、共に松浦守義(まつうらもりよし)が描いた神通橋です。左の版画は神通川の左岸から、立山連峰を背景に描かれており、反対に右の版画は右岸から呉羽山を背景に描かれています。つまり、この2点の版画は、同じ橋を別の角度から描いているということで、対を成しているわけです。

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その後、昭和6年から神通廃川地は埋立てられていくことになりました。旧神通川の流路の内、排水路として残された水路が松川です。神通橋が架かっていた位置には、「船橋」と名付けられた短い橋が架けられました。もちろん、以前にここに船橋が架かっていたことに因んだものです。ちなみに、船橋売店は埋立工事に伴って撤去されていったため、残念ながら商店街へと発展することはありませんでした。

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image07.gif *(3)〜(5)は『富山戦災復興誌』より
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(1)明治初期の船橋 (2)明治末期の神通橋
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(3)昭和15年頃の船橋 (4)空襲直後の船橋
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(5)昭和40年代の船橋 (6)現在の船橋

船橋から神通橋、そして再び船橋へ。長い歴史のなか、形を変えながらも、多くの人々がここで川を渡り、それに伴って多くの物資や情報が送り伝えられてきたのです。

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 現在も、松川には「船橋」という橋が架かっています。この橋は平成元年に架け替えられたもので、船橋を模した形となっています。二艘の船に鎖を絡め、歩道部分はまるで板を敷いたようです。橋のたもとには右岸の常夜灯が、橋下には神通橋の橋台として使われた大石が当時のまま残っています(「博物館だより第17号」参照)。また、ここから旧神通川左岸(北側常夜灯附近)までの間の歩道にも、カラーブロックを使って船橋が表現されています。これらを手掛かりにイメージを膨らませながら、旧神通川を“渡って”みてはいかがですか?
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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:河西 奈津子)