『富山城下神通川船橋図(とやまじょうかじんづうがわふなはし)』 |
山下守胤 |
29号に続けて船橋のお話をします。 この絵も船橋を描いたものです。船橋のたもとに常夜燈があり、両岸には家並みが続いているようです。また向こう岸の船橋を降りたところが階段状になっているのがわかります。 山下守胤(もりたね)は富山二番町(にばんまち)の染物紺屋の家に生まれ、名は昇といいました。しかし守胤は家業を継がず、絵師の道を進みます。(生没年 1786〜1869) 初め富山藩に仕えていた絵師の森探玉斎(もりたんぎょくさい)につき、江戸に出て狩野派の画法を学びました。絵筆をもって各地を歩き、各所景勝地を描いたといいます。 富山に帰り、富山藩10代藩主 前田利保(としやす)に絵を教えるようになりました。また利保の求めにより植物の絵も自ら描いています。花鳥画を得意として、様々な作品を残し、子の勝胤(かつたね)(弌胤)、孫の正胤(まさたね)も絵師となりました。 |
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「越中神通川船橋図」 台嶺 絵(版画) 船橋の長さは4丁余りとある。(約436m) |
船橋の管理・維持のため、両岸に番所が置かれ、常に注意が払われていました。 管理に関しては、このようなお触れが、藩から番人などに出されています。 |
これらのことから、船橋の番人は、船橋を渡る人の安全や、橋そのものを守る役目を負っていたといえるでしょう。 |
また、船橋の安全を保つため、このような決まりがありました。 |
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(↑船橋の管理はほとんど藩の費用、つまり公費でなされていたことがわかります。) 船橋が安全に渡れるように、毎年の手入れが欠かせなかったのです。 |
たいへん大きな神通川に架かっていた船橋は、大水、大雪、また上流から流れ出た木材などによって、橋が切れ、船や板が流されることもありました。 そこで船橋が壊れる危機にあるときは、切り分けて保護することとなっていました。その切り分け手順は次のように決められていました。 |
富山の船橋の鎖(現存) |
”大雨だ! 神通川の水が増えてきたぞ!” | |||
■ | 水量が印杭(危険水量の印をした水量計)を超えた時、船橋番所より町奉行などに届け、岸に船を備えて指示を待つ。 | ||
”どんどん水量がふえてきているぞ!” | |||
■ | 船橋の船頭が切り分けを決める。 | ||
その時 藩から改めて切り分けの指示が出される。 | |||
”船橋を切り分けます!” | |||
■ | 夕方七ツ時(午後4時頃)を過ぎた場合は、作業中にけが人等の出る恐れがあるため、切り分け作業はしない。 | ↑↓鎖はこんなふうに船をつないでいたか。(上下の写真は現在架かる船橋のもの) | |
■ | 切り分け作業に出た船頭などの名を書き上げる。後に下し物(褒美)がある。 | ||
■ | 流れた橋板などを拾うために受取人を出す。 | ||
■ | 船橋の代わりに、船渡しを始める。 | ||
”神通川を渡るひとは、船に乗ってください!” | |||
■ | 切り分けの際には船渡しになるが、このとき船頭にはお救い米が下される。 | ||
■ | 船渡しには武家は無料、町人や百姓からは代金を取る。 | ||
■ | また渡しは明六ツ時(午前6時)から暮れ六ツ時(午後6時)までとする。 | ||
■ | 橋渡しが行われている間に、船や船板の破損状況を調査し、修理費用の見積もりを勘定所(かんじょうしょ)に提出する。 | ||
”やっと川の水も少なくなってきたよ。” | |||
■ | 船などの修復が済み、水が引いた時には、天気をみはからって、船橋懸渡し(かけわたし)の実行予定日を寄合所へ届け出る。 | ||
■ | 懸渡しの際には早朝より取り掛かり、夕方までに終えること | ||
こうして再び船橋が渡れるようになるという訳です。 雪の時も、番人は作業に追われたことでしょう。 |
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越中富山の船橋は、様々な方法・対策によって、守られていたのですね。 |
維持管理の大変難しい船橋でしたが、越中富山の名勝として多くの絵に描かれ、俳句や和歌にも詠まれ、また紀行本などでも紹介されました。 |
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このように、様々に表現されてきた船橋は、明治15年に木橋に架け替えられ、このような風景は見られなくなりました。が、現在でも、いろいろなところに船橋の図柄が使われています。富山の地にとって船橋は、忘れられない風景なのですね。 |
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