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第二十三号
平成10年12月25日
●収蔵品紹介   ●越中国と富山  
●とやま幕末物語その5



収蔵品紹介
『富山藩領絵図』  江戸時代
 

 この絵図は、江戸時代の富山藩(とやまはん)領を表したものです。富山藩は新川郡(にいかわぐん)の一部と婦負郡(ねいぐん)を領有していました。現在の富山県の中央部にあたる地域です。
 (郡の区分は次項をみてください。)
 富山藩は寛永(かんえい)16年(1639)に加賀藩より分藩されました。この時の富山藩の治める範囲は、越中(えっちゅう)国新川郡(にいかわぐん)の一部と婦負郡(ねいぐん)の全域、そして加賀(かが)国能美郡(のみぐん)の一部、と分散しており、非常に治めにくい状態でした。この不便な状況を解決するため、万治(まんじ)3年(1660)に加賀藩の領地の一部との交換が許され、富山藩の領地はやっとひとつの地域にまとまったのでした。
 絵図には町村の名・街道・川の流れなど、彩色され詳細に描かれています。南を上にし、川の流れる方向に従って日本海のある北を下にしています。現代の私たちがよく目にするような実測地図ではありませんが、富山藩内の状況を示す貴重な資料と言えるでしょう。
富山藩領絵図
   





越中国と富山

 
 富山(富山県)のことを「越中」ということがあります。
 今回はその越中という呼称について、たどってみることとします。



越中国の誕生

 日本海に面した北陸地方を、古代では北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう)といいました。この北陸道の地域一帯を「越(高志)=こし」と呼んでいたのです。やがて北陸道は西暦600年代末に、越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)という三つの地域に分割されます。

 この三つの地域はさらに七つの国に分けられました。(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)「越中国(えっちゅうのくに)という記述が大宝(たいほう)2年(702)の史料の中に初めて記されていることから、越中国は700年前後には誕生していたようです。

 その後、越中国に越後国や能登国の一部が含まれることもありましたが、「越中国(えっちゅうのくに)としてその範囲が確定したのは天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)でした。
 こんなむかしから、「越中」という名は使われていたのです。

越中国の郡

 国の中はさらに郡に分けられていたのですが、越中国は射水(いみず)・礪波(となみ)・婦負(ねい)・新川(にいかわ)の4郡でした。
 この区分は明治時代まで変わりません。また、区域は変わりましたが、地名は現在でも使われています。


この絵図の中には越中・加賀・能登国の郡の名がそれぞれ記されています。

越中国…射水、礪波、婦負、新川
加賀国…江沼(えぬま)、能美(のみ)、石川、河北(かほく)
能登国…羽咋(はくい)、鹿島(かしま)、鳳至(ふげし)、珠洲(すず)

加越能三州絵図 
『加越能三州絵図』
江戸時代に描かれたもの(浮田家文書より)


前田家支配と越中国

 さて1500年代に入り、戦国時代には上杉謙信(うえすぎけんしん)や佐々成政(さっさなりまさ)といった、たくさんの武将たちが、越中国の中の領地支配権を争いました。やがて前田利家(としいえ)が加賀を拠点に勢力を伸ばしてきます。
 そして慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原の戦い以後、越中国を含む加越能(かえつのう)三国(加賀(かが)国・越中(えっちゅう)国・能登(のと)国)が完全に前田家の支配となります。(この頃のそれぞれの国の石高は加賀国…役44万石 越中国…約53万石 能登国…約21万石でした。)

 慶長8年(1603)徳川家康(とくがわいえやす)によって江戸幕府が開かれ、日本各地を藩に分けて支配する体制がとられました。(開幕当時185藩)
 前田利家(としいえ)・利長(としなが)の代には、加賀藩として加越能三国を治めていました。前田利常(としつね)の代になり、寛永(かんえい)16年(1639)に富山藩(10万石)と大聖寺(だいしょうじ)藩(7万石)が加賀藩より分藩されました。ここで富山藩が誕生します。富山藩の領土は越中国の一部分でした。
(一番上の写真、「博物館だより7号」参照)
 それから230年もの間、越中国は加賀藩領と富山藩領とに分けられ、それぞれ治められました。


加越能三州郡分略絵図
参考 藩の石高上位7藩
 [寛永元年(1624)頃]
藩  名 国 名 藩主家 石高
 万.千石
加賀<金沢> 加賀 前田 119.50
名古屋<尾張> 尾張 徳川 61.95
仙台 陸奥 伊達 61.50
薩摩<鹿児島> 薩摩
大隅
島津 61.25
和歌山<紀州> 紀伊 徳川 55.50
福井 越前 松平 52.20
福岡 筑前 黒田 43.31

加賀藩が石高の上でたいへん大きな藩だったことがわかりますね
『加越能三州郡分略絵図』
天保6年(1835) 南部正忠 写
原図は石黒信由(いしぐろのぶよし)が実測に基づいて作成したもの

越中国から富山県へ
富山県全図houi1.gif
 明治になり、廃藩置県が行われ、新しい政府によって府・県がおかれました。
 しかし 古代より「越中国」とよばれた地域のほぼ全域が富山県となるのは明治16年のことになります。
「博物館だより6号」参照)
『富山県全図』
明治32年中田書店発行




 「越中国」という国の単位での名前は消えてしまいましたが、「越中」という呼称は今でも様々なところに残っています。
 古代より使われている言葉、大切にしたいものです。






 とやま幕末物語  

<その5>
 
 富山藩への加賀藩介入で、安政6年(1859)には家老の山田嘉膳(やまだかぜん)が加賀藩より遣わされます。しかし元治(げんじ)元年(1864)7月1日、嘉膳(かぜん)は富山藩士の島田勝摩(しまだかつま)らによって城内三の丸で暗殺されてしまいます。加賀藩に反発する一派の行為でした。
 
 さて慶応(けいおう)2年(1866)徳川慶喜(よしのぶ)が15代将軍となります。翌年10月 慶喜は大政を奉還し、12月には王政復古の大号令が発せられますが、政治の主導権をめぐって幕府と、朝廷側とで争う事態となりました。
 この時加賀藩十四代藩主前田慶寧(よしやす)は、はじめ幕府に協力する姿勢をみせていましたが、慶応4年の始めより幕府と朝廷から交互に兵を要請され、結局は朝廷側につき、幕府側と戦うことになってしまいます。戊辰(ぼしん)戦争が始まり、4月には北越に出兵の命令が下り、富山藩もこれに応じることとなりました。
 5月からは長岡藩・会津藩・桑名藩を中心とする幕府軍と、薩摩藩・長州藩・加賀藩を中心とする官軍(朝廷側)とで、越後の各地で衝突を繰り返します(北越戦争)。富山藩も440名を出兵させています。7月に長岡城が陥落し、同時に新潟も官軍が占拠し、その後会津若松城が落ち、越後東北の幕府軍が敗れたのです。
 その年9月8日改元され、慶応から明治になります。11月には朝廷より富山藩にも帰兵が命じられ、やっとここで北越戦争も終りとなりました。翌年の6月その戦功の褒美として、富山藩に5千石が加増されました。この時富山町内ではお祝いの山車が出て、賑やかであったようです。しかしこれもつかの間、明治4年には廃藩置県で、富山藩はなくなります。江戸時代がおわり、その後の明治・大正へと時代は進んでいくのでした。
御慶事賑物より

『御慶事賑物』より
加増された際に出た町の山車の絵のうちの1枚
(絵 松浦守美(まつうらもりよし)


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