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『富山藩領絵図』 江戸時代 |
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富山(富山県)のことを「越中」ということがあります。 今回はその越中という呼称について、たどってみることとします。 |
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日本海に面した北陸地方を、古代では北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう)といいました。この北陸道の地域一帯を「越(高志)=こし」と呼んでいたのです。やがて北陸道は西暦600年代末に、越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)という三つの地域に分割されます。 この三つの地域はさらに七つの国に分けられました。(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)「越中国(えっちゅうのくに)」という記述が大宝(たいほう)2年(702)の史料の中に初めて記されていることから、越中国は700年前後には誕生していたようです。 |
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その後、越中国に越後国や能登国の一部が含まれることもありましたが、「越中国(えっちゅうのくに)」としてその範囲が確定したのは天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)でした。 こんなむかしから、「越中」という名は使われていたのです。 |
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国の中はさらに郡に分けられていたのですが、越中国は射水(いみず)・礪波(となみ)・婦負(ねい)・新川(にいかわ)の4郡でした。 この区分は明治時代まで変わりません。また、区域は変わりましたが、地名は現在でも使われています。 |
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この絵図の中には越中・加賀・能登国の郡の名がそれぞれ記されています。 |
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越中国…射水、礪波、婦負、新川 加賀国…江沼(えぬま)、能美(のみ)、石川、河北(かほく) 能登国…羽咋(はくい)、鹿島(かしま)、鳳至(ふげし)、珠洲(すず) |
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『加越能三州絵図』 江戸時代に描かれたもの(浮田家文書より) |
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さて1500年代に入り、戦国時代には上杉謙信(うえすぎけんしん)や佐々成政(さっさなりまさ)といった、たくさんの武将たちが、越中国の中の領地支配権を争いました。やがて前田利家(としいえ)が加賀を拠点に勢力を伸ばしてきます。 そして慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原の戦い以後、越中国を含む加越能(かえつのう)三国(加賀(かが)国・越中(えっちゅう)国・能登(のと)国)が完全に前田家の支配となります。(この頃のそれぞれの国の石高は加賀国…役44万石 越中国…約53万石 能登国…約21万石でした。) |
慶長8年(1603)徳川家康(とくがわいえやす)によって江戸幕府が開かれ、日本各地を藩に分けて支配する体制がとられました。(開幕当時185藩) 前田利家(としいえ)・利長(としなが)の代には、加賀藩として加越能三国を治めていました。前田利常(としつね)の代になり、寛永(かんえい)16年(1639)に富山藩(10万石)と大聖寺(だいしょうじ)藩(7万石)が加賀藩より分藩されました。ここで富山藩が誕生します。富山藩の領土は越中国の一部分でした。 (一番上の写真、「博物館だより7号」参照) それから230年もの間、越中国は加賀藩領と富山藩領とに分けられ、それぞれ治められました。 |
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参考 藩の石高上位7藩 [寛永元年(1624)頃]
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『加越能三州郡分略絵図』 天保6年(1835) 南部正忠 写 原図は石黒信由(いしぐろのぶよし)が実測に基づいて作成したもの |
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明治になり、廃藩置県が行われ、新しい政府によって府・県がおかれました。 しかし 古代より「越中国」とよばれた地域のほぼ全域が富山県となるのは明治16年のことになります。 (「博物館だより6号」参照) |
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『富山県全図』 明治32年中田書店発行 |
「越中国」という国の単位での名前は消えてしまいましたが、「越中」という呼称は今でも様々なところに残っています。 古代より使われている言葉、大切にしたいものです。 |
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<その5> |
富山藩への加賀藩介入で、安政6年(1859)には家老の山田嘉膳(やまだかぜん)が加賀藩より遣わされます。しかし元治(げんじ)元年(1864)7月1日、嘉膳(かぜん)は富山藩士の島田勝摩(しまだかつま)らによって城内三の丸で暗殺されてしまいます。加賀藩に反発する一派の行為でした。 さて慶応(けいおう)2年(1866)徳川慶喜(よしのぶ)が15代将軍となります。翌年10月 慶喜は大政を奉還し、12月には王政復古の大号令が発せられますが、政治の主導権をめぐって幕府と、朝廷側とで争う事態となりました。 この時加賀藩十四代藩主前田慶寧(よしやす)は、はじめ幕府に協力する姿勢をみせていましたが、慶応4年の始めより幕府と朝廷から交互に兵を要請され、結局は朝廷側につき、幕府側と戦うことになってしまいます。戊辰(ぼしん)戦争が始まり、4月には北越に出兵の命令が下り、富山藩もこれに応じることとなりました。 5月からは長岡藩・会津藩・桑名藩を中心とする幕府軍と、薩摩藩・長州藩・加賀藩を中心とする官軍(朝廷側)とで、越後の各地で衝突を繰り返します(北越戦争)。富山藩も440名を出兵させています。7月に長岡城が陥落し、同時に新潟も官軍が占拠し、その後会津若松城が落ち、越後東北の幕府軍が敗れたのです。 その年9月8日改元され、慶応から明治になります。11月には朝廷より富山藩にも帰兵が命じられ、やっとここで北越戦争も終りとなりました。翌年の6月その戦功の褒美として、富山藩に5千石が加増されました。この時富山町内ではお祝いの山車が出て、賑やかであったようです。しかしこれもつかの間、明治4年には廃藩置県で、富山藩はなくなります。江戸時代がおわり、その後の明治・大正へと時代は進んでいくのでした。 |
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『御慶事賑物』より 加増された際に出た町の山車の絵のうちの1枚 (絵 松浦守美(まつうらもりよし)) |
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