安田城跡 歴史の広場
平成27年度 歴史講座開催報告

1.「城郭遺構から読み解く佐々成政討伐後について」佐伯哲也氏(城郭研究家)
   
10月21日(水曜日)、佐伯哲也氏による講座を開催しました。
白鳥城・大峪城・安田城は、天正13年の佐々成政攻めにあたり前田氏(あるいは豊臣氏)によって大改修(あるいは築城)されたとされています。
しかし、土木技術者でもある佐伯氏の計算によると、大峪城の築城には1000人の土木作業員が1日12時間働いても1年以上かかるそうです。

前田氏がこの地に進軍できたのは守山城・木船城・増山城の落城後であり、それから佐々降伏までは7日間程度しかないため、その間に大峪城を築城・改修したとする前述の説は現実的ではないとのことでした。
また大峪城は、神通川以西が前田領となってから神通川以東の佐々領を監視するために築城したものであり、佐々が肥後国主となってからは不要となったとの見解を述べられました。

城郭遺構を丁寧に読み解いていくと、文献史料からは分からない新たな戦国史が見えてくるようです。

2.「文字資料にみる富山の歴史について」 木本秀樹氏(安田城跡資料館員、越中史壇会副会長)
   
3月10日(木曜日)、木本秀樹氏による講座を開催しました。
木簡や墨書土器といった出土文字資料は、全国的に膨大な数量に上がっています。
越中国関係の文字資料は、7、8世紀の宮都にもみられます。奈良市西隆寺(さいりゅうじ)跡では天平神護(じんご)三年(769)に婦負郡川合郷から米五斗が送られたことを記す荷札木簡が出土しました。寺の造営にあたり食糧米が貢進(こうしん)されたものと推測されます。
このほか「高志國利浪評(こしのくにとなみのこおり)」「高志□新川評(にいかわのこおり)」などの地名を記した資料も紹介され、こうした都城跡出土の木簡から当時の地方支配の一端をかいま見ることができました。

富山市内から出土した墨書土器に書かれた文字は、役職、施設、人名を示すもののほか、祭祀・儀礼に関するものなど様々です。
そのうち則天文字は、呪術的な文字として、律令(官人)もしくは仏典(僧侶)を介して地方に伝播したものと考えられるとのことでした。
出土資料に残された文字の数は決して多くはありませんが、そこからは当時の社会的背景や制度など、様々なことが読み取れることが分かりました。