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弥生時代 |
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弥生時代の遺跡は、中期(約2400から2100年前)までは散在する程度ですが、後期から終末期(約2000から1800年前)に急激に増加します。この変化は、人びとが新たな開拓地を求めて移住してきたことを示しています。
遺跡は大きく3つの地域に分布しており、内陸部では「呉羽丘陵から神通川の支流の井田川・山田川流域にかけて広がる婦負地域」と「白岩川流域」、海岸部では「神通川の河口付近」に集中しています。遺跡のの分布状況から、当時の河川流域ごとに集落がまとまり、地域共同体を形成していたことが分かります。 |
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『婦負のクニ」の大規模遺跡群 |
弥生時代終わり頃、婦負地域に数多くの集落や墳墓が出現しました。
越中でもいち早く地域社会が発展したこの一帯には、当時、婦負の国が存在したと推測されています。
この遺跡群の一部は「史跡王塚・千坊山遺跡群」として国の史跡に指定されています。 |
婦負地域を大きく特徴づけているのが、山陰に源流をもつ四隅突出型墳丘墓(六治古塚墳墓、富崎墳墓群、鏡坂墳墓群、杉谷4号墳)です。
この地域は四隅突出型墳丘墓の分布域の最北端にあたり、越中だけに集中します。特異な形態をもつこの墳墓の規模は、一辺25mと県内でも傑出した規模を誇り、この地域の独自性と先進性を表しています。墳墓の頂部や周溝からは、埋葬儀礼に使用された土器が出土しました。なかには祭祀用小型台付装飾壺や、祭文・浮文・スタンプ文・赤彩などを施した装飾性の高い祭祀用土器もみられます。 |
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鏡坂墳墓群出土土器 |
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墳墓ではほかに、前方後方形墳丘墓の向野塚墳墓(全長25.2m)や、方形周溝墓群の杉谷A遺跡の埋葬施設からは、素環頭鉄刀・ヤリガンナ・刀子などの鉄製品や銅鏃、ガラス小玉などの副葬品が出土しました。また周溝からは、底部を意図的に穿孔した祭祀用の壺などが出土しました。
これらの墳墓を築いた集落も複数確認されています(鍛冶町遺跡、舘本郷U遺跡ほか)。なかでも県内でも最大級の集落である千坊山遺跡では竪穴住居跡25棟を検出しています。住居跡からは、調理具(甕)や貯蔵具(壺)、食器(高杯・鉢)、祭祀用の赤彩土器(壺・器台・高杯)がまとまって出土しました。
また丘陵の頂部には、環濠をめぐらした高地性集落も確認されており(富崎赤坂・離山砦遺跡、白鳥城跡)、当時の社会的緊張を物語っています。 |
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海岸部の集落 |
海岸部に位置する打出遺跡は、旧神通川河口に位置する弥生時代後期から古墳時代前期の集落遺跡です。 |
弥生時代終末期の竪穴住居の1棟からは、炭化した建築部材や焼けた土の塊が崩れ落ちた状態で見つかりました。建築部材から住居の構造を復元すると、4本の主柱に梁・桁、垂木・小舞などの材を組み、茅を二重に葺いた後に、屋根中央にある煙出し付近まで土をかぶせた土屋根住居であることが分かりました。この住居は、建物の廃棄にともなって意図的に燃やされたと推測されます。また、鉄器製作道具や加工途中品が出土し、鉄の加工が行われたことを示しています。 |
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三連壺 (打出遺跡) |
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また、旧神通川跡の川岸には、祭祀用の土器が多数廃棄された場所があり、そのなかに三連壺という特殊な土器がありました。三連壺は、古墳時代前期頃に畿内で使われていた祭祀用の土器で、ここでの出土例が国内最北端です。水に対する鎮めなどの目的で祭祀が行われていたと考えられます。 |
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玉作りの集落 |
集落内で玉作りが行なわれていた遺跡としては、清水堂南遺跡や宮町遺跡があります。残念ながら工房跡は見つかっていませんが、勾玉や管玉の完成品のほか、玉作りが行われたことを示す加工途中品や原石が多数出土しました。使用された石材は、翡翠・蛇紋岩・緑色凝灰岩・鉄石英などさまざまです。 |
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玉類
(清水堂南遺跡) |
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