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縄文時代 |
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富山市域の縄文時代早期(10000から6000年前)の遺跡は、山間部や丘陵地に多くみられます。船峅台地の史跡直坂遺跡からは、模様を彫った棒を土器に押しつけ、転がして文様をつける回転押型文土器が見つかっています。この文様は、飛騨・信州・近畿・東海地方との関連を示しています。 |
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日本海側最大級の貝塚、小竹貝塚 |
縄文時代前期(約6000から5000年前)の富山市の海岸沿いは縄文海進で形成された潟湖が広がっていました。
小竹貝塚は、その潟湖べりに形成された日本海側最大級の貝塚です。貝塚の所在は昭和20年代から知られており、昭和45年の排水工事に伴う富山県教育委員会の調査では、貝・獣骨・魚骨など人骨が出土しました。ボーリング調査等の結果から、貝層は弧状に広がり、その中央の高台に居住域があることが分かりました。
平成20年度の富山市教育委員会埋蔵文化財センターの調査では、集落側の貝層中に穴を掘り埋葬された人骨2体が発見されました。1号人骨はほぼ完全な頭蓋骨で、2号人骨は両足を折り曲げて胸部に大きな石を抱かせた「抱石葬」で埋葬されていました。死者の霊が生者に災いをもたらすのを恐れ、遺体に重い石を押せたと考えられています。
本貝塚に廃棄された貝類はヤマトシジミが主体で、オオタニシ・サザエ・ハマグリ等も含まれます。また。貝層からは廃棄された土器や石器・骨角器(ヤス・釣針等)など、様々な生活用具もたくさん発見されました。
出土したの骨には、魚骨・鳥骨・クジラ・イルカ・シカ・イノシシ・イヌ等があります。中でもイヌの骨は比較的まとまって出土しており、解体痕がないことから、死体を埋葬したと考えられます。猟犬として縄文人を補佐したイヌは、良きパートナーとして葬られたのでしょう。 |
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人骨(頭蓋骨)出土状況(小竹貝塚) |
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石製品(小竹貝塚) |
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環状集落と大型住居 |
この時期の東日本の特徴的な集落形態は、広場や墓地に中央に設定した周囲に円を描くように竪穴住居を配置した環状集落です。 |
開ヶ丘狐谷V遺跡(約5000から4500年前)の集落跡は、中央に円形の広場があり、その周囲に掘立柱建物群、さらに外周に竪穴住居群が同心円状に分布する構造になっています。
また、開ヶ丘狐谷V遺跡では長辺が11.5mの掘立柱建物、追分茶屋遺跡では直径11mの竪穴住居、東黒牧上野(A地区)遺跡では長辺が8mの竪穴住居が確認されました。これら大型建物は、共同作業場や儀礼の場など様々な目的で使用されたと推測されています。 |
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縄文の華、縄文土器 |
縄文人たちは縄文土器を独特の形や文様によって飾り、自然への特別な願いや自らの精神世界の表現手段にしました。富山の縄文土器文化は、蜆ヶ森式、新保・新崎式、天神山・古府式、串田新式など、前期から中期において特に地域性の高い固有の土器文化が展開し、周辺地域へも波及しました。サルボウを使った貝殻腹縁文など特徴的な文様は、周辺地域の土器文様と融合した例もみられます。また玉抱三叉文は彫刻石棒にも採用され、飛騨方面への広がりを示しています。 |
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深鉢形土器・浅鉢形土器(天神山式 中期中葉)鏡坂T遺跡 |
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生命への祈り |
縄文時代を象徴する呪術の儀式具として、土偶があります。
土偶は、その多くが破損して出土し、土偶を壊すことで生命の再生を願ったと考えられます。
長岡八町遺跡では、北陸で最大級の、仮面を付けている土偶の頭部が出土しました。土偶の顔の大きさから土偶の全長を推定すると、約38pとなります。 |
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土偶頭部(姉妹土偶)
長岡八町遺跡 |
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謎の石製品 |
縄文時代晩期(約3000から2300年前)になると北陸から飛騨にかけて御物石器・石冠・巨大な石棒など不思議な石器が現れます。これらの用途は不明ですが、稲作文化の到来に対する縄文人の対抗意識から生まれた新たな呪術の道具という説もあります。 |
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御物石器(左) 春日遺跡
石冠(右) 水橋金広・中馬場遺跡 |
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