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『登城(とじょう)』 |
金森観陽 (1884〜1932) |
富山出身の画家 金森観陽(かなもりかんよう)は、明治17年総曲輪(そうがわ)の小出家に生まれますが、幼い時に金森家へ養子に入ります。名前は頼次郎といいました。やがて頼次郎は、明治期の富山で売薬版画の下絵を多く描くなどして活躍していた尾竹国一(おだけくにかず)の弟子となり、画家を志します。 その後大阪へ移り住み、昭和のはじめには菊地契月(きくちけいげつ)という画家の画塾に入門して、さらに絵の修行に努めました。多くの展覧会に出品、入選し、関西方面で活躍しました。また小説『新撰組』(白井喬二著)『大菩薩峠』(中里介山著)などに挿絵を描いています。 この絵は題名通り、侍が従者を連れてお城へ上がる様子が描かれています。手前の馬は主人である侍が乗ってきたのでしょうか。 侍たちが堀にかかった橋を渡り、ちょうど門をくぐろうとするところです。江戸時代の富山城でも、こんな風景が見られたのかもしれません。 さてその門のお話をします。 |
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現在 富山市郷土博物館が建っている石垣の横には、かつて富山城の本丸に通じる門がありました。今回はそのお城の「門」についてお話しします。 |
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お城の多くは、城内の敷地と町、あるいは堀との境界線をはっきりさせるため、石垣などの柵(さく)・塀(へい)で囲まれています。その囲みはまた、戦になった時に城を守るという、大切な役目を果たします。この柵・塀に、人が出入りするためにつけられているのが「門」なのです。 |
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富山城にはいくつの門があったのでしょうか。 時代によっても異なるようですが、富山藩の居城として使用されていた江戸時代に設置されていた主な門を、右の図の中に○数字で示しました。 このように、富山城にも多くの門があったのですが、それぞれどのような門だったのでしょう。 |
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富山城下絵図 部分 <江戸時代後期> (富山市郷土博物館蔵) |
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(1) | 城の表門にあたる正面南側の門は、大手御門(おおてごもん)と呼ばれていました。現在市民プラザの少し南側付近にあたります。またこの地域には大手町という町名がついています。 |
(2)(3) | 東・西の出入り口にも門がありました。この出入り口は、枡形という守りのための小さな広場を設けた場所です(大手も桝形(ますがた)です)。 それぞれ2東の升形御門(ひがしのますがたごもん)3西の升形御門(にしのますがたごもん)といいました。 |
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この(1)(2)(3)の3つの門が富山城の外玄関といえるでしょう。 |
ちょっとより道 正式に枡形門(ますがたもん)というと、二重に門を構えているものを指します。 富山に近いところでは、金沢城の石川門がこの形式を備えており、現在も見ることができます。たいへん攻撃しにくく、守りには強固な門です。 |
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(4) | 門の形式から櫓御門(やぐらごもん)と呼ばれました。富山城内の他の門にも櫓門はありますが、特に櫓御門(やぐらもん)というと、この二の丸の門を指しました。江戸時代後期には、大きな二階建ての門が建てられていたことがわかっています。(下を参照)また二階御門・二の丸櫓門などとも呼ばれました。現在の国際会議場付近にあたります。 |
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(5) | 本丸に入る正面玄関として、この鐡御門(くろがねごもん)がありました。鉄板張りの扉が付けられていたため、この門の名前がつけられたと考えられます。現在この郷土博物館が建っている石垣の横にあたります。 |
(6)(7) | 本丸からそれぞれ東出丸・西出丸に通じる門がありました。Eは枡形(ますがた)になっており、櫓門(やぐらもん)があったようです。城の裏口ということで搦手門(からめてもん)とも呼ばれていました。現在は富山佐藤美術館付近になります。 |
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(8) | 東出丸のさらに東側の丸(まる)(郭(くるわ))への出入り口の門があったようです。その丸には嘉永(かえい)2年(1849)十代藩主前田利保(まえだとしやす)の隠居所として千歳御殿(ちとせごてん)が造営されました。 |
(9) | 本丸から二の丸を通らずに、東出丸を通り東の升形御門(ひがしのますがたごもん)から出る時に(反対に東から入って本丸に行く時も)この門を使ったようです。 |
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江戸時代 富山城はたびたび火事などで建物を失っています。よって再建や修復を幕府に願い出なければなりませんでした。その際に書かれたものでしょうか、4櫓御門(やぐらごもん)と5鐡御門(くろがねごもん)の簡単な図面が残されています。(4櫓御門は下に) | ![]() |
鐡御門の図 <原本は富山県立図書館所蔵> |
鐡御門(くろがねごもん)の扉の大きさは図面の中に「高さ一丈二尺」「明口一丈二尺」と書かれていますから、高さ間口ともに約3.6mということになります。その上にさらに、扉と同じぐらいの高さの屋根が乗っているのですから、かなり大きな門だったことが想像できます。 この門のような形式を薬医門(やくいもん)といいます。この形式で造られた門を、富山市内で現在も見ることができます。富山市米田にある「千歳御殿(ちとせごもん)の門」です。最近新聞にもこの門についての記事が載せられたので、ご存じの方もいらっしゃることでしょう。 この千歳御殿の門と鐡御門の図とを見比べてください。形がよく似ていませんか? |
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今に残る千歳御殿の門 (富山市米田) |
ちょっとより道 有名な東京大学の赤門(旧加賀(かが)藩屋敷御守殿門)も、形式は薬医門(やくいもん)です。 |
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明治4年(1872)の廃藩置県により、藩による支配体制はなくなります。 よって城内に住んでいた藩主をはじめ、家臣たちも立ち退かなければなりませんでした。その後残された建物のうち、富山城の本丸御殿は県庁として利用されることとなりましたが、その他の城の建物は徐々に解体されていきました。 (明治以降の城域について詳しいことは「博物館だより」38号を参照) |
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さて富山城の建物の中で、明治8〜16年の間に学校として使用された門があります。それは二の丸にあった櫓御門(やぐらごもん)です。門の二階を教室としていたと考えられますが、教室となるほどの空間があったのでしょうか。 |
明治期二の丸にあった 二階櫓御門の古写真 (富山市郷土博物館蔵) |
図面の中の書き込みを見ると、門全体の横幅は「六間八尺二寸」とありますので、約13.4mもあり、奥行きは「一丈七尺」つまり約5.2mほどもあったのです。この範囲に二階の空間があったと考えられ、これは教室として使える十分な広さだったのでしょう。 | ![]() |
櫓御門の図 <原本は富山県立図書館所蔵> |
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左は、その櫓御門を教室としていた頃の様子を想像して描かれた絵です。元気そうな子供たちの姿が見えます。この学校の名は俛焉(べんえん)小学校、のちの富山市立総曲輪(そうがわ)小学校です。 俛焉小学校は明治16年に移転し、その時に櫓御門の解体されてしまいました。現在櫓御門があった付近の地域は、国際会議場となっています。 |
俛焉小学校の図 (富山市立総曲輪小学校蔵) |
今回は門について見てきましたが、現在の富山城址公園の出入り口も、かってはお城の門があった地点があります。江戸時代には、富山の殿様や藩士がその門を通っていたことでしょう。 |
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