市河寛斎は、江戸時代後期の儒学者であり漢詩人です。幕府儒官林大学頭家の学塾に学び、湯島聖堂の学頭(啓事役)まで勤めましたが、寛政の改革の余波で辞任します。その後、寛政3年(1791)、富山藩に招かれて藩校広徳館の祭酒(学長)に就任しました。以後、文化8年(1811)に子の米庵に家督を譲るまで20年余りの在職中、江戸と富山を往復しながら、広徳館の学風を徂徠学派から朱子学派に改めたほか、学制の整備、教科書の出版など大きな足跡を残しています。
また、文学的才に恵まれた寛斎は、儒学者として以上に漢詩人として評価を受けています。江戸にいる頃から漢詩人のグループである江湖詩社を結成し、その下からは大窪詩仏、柏木如亭、菊池五山らの詩人が巣立ちました。
本年は、寛斎が文政3年(1820)七月に没してから200年となります。富山藩の儒学者として広徳館でなした業績を中心に、寛斎の富山における日常を紹介します。 |