富山城に天守閣はあったのか(2)
富山藩政期の場合

富山藩政期の富山城を描いた城絵図は数多くあり、それらはほぼ共通した構造で描かれています。現在残る石垣や土塁はその図とほぼ一致します。
それらの図にはいずれも天守閣は描かれていません。
富山藩は、天守閣建設の計画を立てていたことは、幕府が許可した「万治4年築城許可書」の内容から明らかです。許可書によれば、

「天守土臺石置之、同天守建之事」

とあり、天守台を石垣造にして天守閣を建設すること、という内容になっています。
その後の絵図をみると、本丸南東隅(巽)の土塁屈曲部が広くなっており、天守台として土塁部分が盛土造成されたことがわかります。しかし、幕府の条件として出された「石置」すなわち石垣造にはなっておらず、2005年に行われた試掘確認調査でも石垣の存在は確認されませんでした(→富山城の考古学的発掘【江戸期富山城の発掘1本丸天守台】参照)。
 
以上のことから、天守閣は、建設のための土塁部分の基礎造成は行われたが、天守台石垣築造と天守閣の建設は実施されなかったと考えられます。
 
富山藩では、許可書に示された内容から、崩れた石垣4か所を修復し、櫓を2か所、二階門を3か所建て、完全な城郭造を行う予定で、その計画は幕末まで変わることなく続いていました。しかしその計画のうち、実際に建てられたのは二の丸西側虎口の二階櫓門のみでした。
延宝5(1677)年城絵図では、本丸鉄門石垣に二階櫓門と南西隅櫓(絵図では「矢倉」)、本丸搦手石垣に二階櫓門と多門櫓、本丸南東土塁隅に隅櫓(巽櫓、絵図では「矢倉」)を建てる計画が示されています。
その後、天明から安政の江戸後期から幕末の城絵図では、本丸鉄門石垣に櫓門と南西隅櫓・多門櫓(絵図では「長屋」)、本丸搦手石垣に櫓門、本丸南東土塁隅に隅櫓(絵図では「矢倉」)、本丸北西土塁隅に隅櫓(絵図では「櫓」)の計画が示され、乾櫓の計画が増えています。
天守閣築造計画は幕府に承認されたものの、藩の財政事情により建設が延び延びになり、結局幕末まで天守閣を始め、本丸の櫓は作らずじまいであったとみられます。
(古川)
「万治年間富山旧市街図」にみる本丸天守台
「万治年間富山旧市街図」にみる本丸天守台