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本丸天守台 |
城址公園東側は本丸跡と呼ばれ、江戸期には藩主御殿が建っていた場所です。 |
本丸の入口(大手)と裏口(搦手)は石垣造ですが、それ以外の部分は土塁で囲まれていました。それらの土塁は明治以降堀側を埋めるように順次取り壊されていきました。現在残るのは南辺の一部ですが、そこも昭和時代石垣にされ、部分的に残るにすぎません。 |
富山城では、本丸の南東隅の土塁上に天守閣を作る計画が立てられました。計画では天守の基礎部分(天守台)を石垣造とする予定であり、寛文元年の幕府の許可にもそのことが条件として付けられていました。しかしその後、絵図などに天守閣が描かれることは無く、天守閣は建築されなかったという考え方が主流でした。 |
平成17年度の発掘では、天守台があったと思われるところを掘り下げました。調査の結果、天守台の基礎盛土の一部を確認しました。この盛土には石垣が築かれた跡はなく、傾斜をもつ土の基壇であったことがわかりました。この基壇は多くの絵図に描かれていることから、天守台の盛土造成までは行なったが、最終的に石垣を築くことはなかった、すなわち天守閣の建築も行わなかったことが発掘で裏付けられました。 |