本丸の発掘
天守台の発掘(2005年度調査)
(1)発掘成果の概要
 
本丸天守台
城址公園東側は本丸跡と呼ばれ、江戸期には藩主御殿が建っていた場所です。

本丸の入口(大手)と裏口(搦手)は石垣造ですが、それ以外の部分は土塁で囲まれていました。それらの土塁は明治以降堀側を埋めるように順次取り壊されていきました。現在残るのは南辺の一部ですが、そこも昭和時代石垣にされ、部分的に残るにすぎません。

富山城では、本丸の南東隅の土塁上に天守閣を作る計画が立てられました。計画では天守の基礎部分(天守台)を石垣造とする予定であり、寛文元年の幕府の許可にもそのことが条件として付けられていました。しかしその後、絵図などに天守閣が描かれることは無く、天守閣は建築されなかったという考え方が主流でした。

平成17年度の発掘では、天守台があったと思われるところを掘り下げました。調査の結果、天守台の基礎盛土の一部を確認しました。この盛土には石垣が築かれた跡はなく、傾斜をもつ土の基壇であったことがわかりました。この基壇は多くの絵図に描かれていることから、天守台の盛土造成までは行なったが、最終的に石垣を築くことはなかった、すなわち天守閣の建築も行わなかったことが発掘で裏付けられました。
 
本丸南辺土塁
平成17年度の発掘で、天守台と大手枡形石垣の間の土塁横を掘り下げたところ、土塁の痕跡が1.3mの厚さで残っていました。それは本丸内側の傾斜部分にあたり、土層の最大傾斜は45度があります。土塁の斜面は一般に40度から45度で、これ以上の急傾斜になると土が崩れる危険があったといわれます。
土塁の変遷推定図
土塁の変遷推定図
   
この土塁の下からは、江戸時代初期の水平な土間遺構が見つかりました。この土間は建物遺構の床で、床上からは越中瀬戸、越前などの陶磁器や金箔張木製品が出土しました。陶磁器の年代から、この建物遺構は前田利長期のものであることがわかりました。 金箔張木製品
金箔張木製品
この事実から、土塁は、利長の次の初代富山藩主利次の時代、寛文元年頃に現在地に作られたことがわかります。利長期にはそこはまだ本丸の中であったわけです。したがって、利長期の土塁は今より南側に存在したと推定されます。利次が土塁を移した理由は、堀の拡張のためだったことが、絵図に記された堀幅のデータからわかります。
(古川)