富山城に天守閣はあったのか(1)
慶長期富山城の場合

城郭には多くの場合、隅櫓が存在し、その一つが発展して天守閣が形成されたと考えられています。その天守閣は、領主の権力の象徴として、領民に「見せる」目的で造営されたと理解されています。では、富山城にも天守閣が存在したのでしょうか。

慶長14(1609)年大火で廃城となった慶長期富山城の姿を残す「越中国富山古城之図」(金沢市立玉川図書館蔵)によれば、慶長期富山城は、二の丸虎口・本丸大手虎口・本丸搦手虎口の3か所が石垣造で、それ以外は土塁が曲輪を取り巻いていました。

「慶長期富山城を考える」の【慶長期富山城内郭の系譜を考える(1)】で述べたように、慶長期富山城は、秀吉の築城した京都聚楽第を手本にした「聚楽第型城郭」の類型に含まれると考えられます。聚楽第型城郭の特徴は、本丸周囲に馬出と呼ばれる小曲輪を設けることと、本丸の隅に天守閣を設けることが共通するとされています。特に天守閣は、聚楽第や広島城のように、本丸の北東隅に置く傾向が指摘されています。

富山城の本丸北東隅には、搦手虎口が置かれ、石垣と土塁が直角に交わる部分にあたります。虎口のすぐ横に天守閣を置くのは防御上好ましくなく、もし仮に富山城に天守閣が存在したとすると、その位置は本丸の北西隅が理論上適しています。

古城絵図によると、本丸北西隅は土塁の屈曲部であり、天守閣などの櫓建物を置く構造・空間にはなっていません。したがって、慶長期富山城には天守閣はなかった可能性が高いといえます。

2006年の石垣改修工事に伴う発掘調査では、慶長期の瓦(梅鉢文軒丸瓦・唐草文軒平瓦)や石垣天端の建物礎石(8寸角柱)が確認されていることから、少なくとも石垣の上には瓦を葺いた櫓建物(隅櫓・櫓門・長屋)が存在したことは確実ですが、天守閣の存在の有無までは証明できていません。
(古川)