城内に屋敷を構える人々
−富山藩政前期−

藩主の住む本丸を中心とした内郭の周囲には、主要な家臣が配置されます。富山城では「三ノ丸」と呼ばれる外郭にそれらの屋敷が構えられます。

富山藩初期の「万治年間富山旧市街図」には、三ノ丸に屋敷を構える家臣名21名分が記されており、屋敷の位置や広さもわかります。

家臣名からみて、三ノ丸に配置された家臣は、家老・城代など上級武士に限らなかったことが確認できます。

以下に名前とその役職、知行高を示します。(加賀藩とあるのは、分藩以前の知行高等)
 
〔大手以西〕
冨田図書 家老  6,500石
入江権兵衛直親 小姓頭、のち城代 600石(加賀藩 長兵衛300石)
生田四郎兵衛 1,100石、のち900石 馬廻頭、足軽頭(加賀藩 千勝様衆1,000石)
*千勝様は、前田利次の幼名
奥村蔵人(具知) 家老 800石
村 勘左衛門 家老、のち年寄 3,000石
今枝喜兵衛 6,000石 (加賀藩 民部7,000石)
久保喜庵 組外(鍼医?) 25石
吉田長次郎 不詳
磯野次郎八 御小々姓 20両7人扶持
浅尾主膳 300石 (加賀藩 300石)
〔大手以東〕
浅野五郎左衛門 馬廻1,500石 (加賀藩鉄砲頭1,500石)
山崎宇左衛門 250石?(吉左衛門?) (加賀藩 千勝様衆長兵衛200石)?
磯野新右衛門 馬廻組350石 のち400石 (加賀藩250石)
戸田七郎兵衛 馬廻組300石 のち長病のため100石
戸田吉十郎 不詳
市橋右近
(絵図では本橋)
不詳 (加賀藩 検地奉行200石)
永嶋与兵衛 組外25石
永嶋市兵衛 組外20石 のち厩方馬見才許 のち150石
伯楽九郎兵衛 不詳 (馬見役?)
奥津里庵(如雲) 組外 医者220石 のち200石

以上の状況をみると、三ノ丸に配置された家臣は、必ずしも家老・城代など上級武士に限らなかったということが分かります。

知行高の高い家老・年寄のほか、知行高が低い家臣でも加賀藩で過ごした幼少期以来の側近であった家柄のほか、特定の医者や小姓などは藩主利次の気に入った者が置かれていると思われます。

伯楽は中国故事で「馬の良否を見分ける人」をいい、「富山之記」にも城下町本町に住む技術者として「伯楽」(ハクラウ)を掲げています。伯楽氏は、後に厩方馬見才許となる永嶋屋敷と並んで存在しており、永嶋市兵衛に馬見の技術を伝授する役目を持っていたとみられます。

これらの人々はいわゆるブレーンとして、藩主の傍に置かれたといえるでしょう。
(古川)