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mark.gif 第三十四号
平成11年11月25日
●収蔵品紹介  ●特別展 地震・大火・火事-富山
●おさんぽ城址公園 災害編



収蔵品紹介
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火事羽織
(伝 前田利保着用)
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 背中に大きな梅鉢の紋と、大胆な構図の波・船が描かれています。この羽織は富山藩十代藩主の前田利保(まえだとしやす)(1800〜1859)が着用したものと伝わっています。大きな羽織で、丈は105cm ゆきは129cmあります。羅紗(らしゃ)(織目が見えないように加工仕上げした羊毛織物)でつくられたものです。
 江戸時代の初期には、火事の際には武士は鎧兜(よろいかぶと)を着て、まるで戦にでも出るように、消火へ向かったようです。その後 胄頭巾(ずきん)・羽織・胸当・袴(はかま)・革足袋を一揃いとする火事装束が用いられるようになりました。やがて後期になるに従って、大名たちはこの装束を派手なものにしていったのです。

 江戸時代には各地方の藩主は、参勤交代により一定期間で江戸と地元とを往復しなくてはなりませんでした。江戸にいる間は幕府の命令で、様々な役目がつけられましたが、その中の一つが火事番でした。前田利保も何度か浅草御蔵(あさくらおくら)の火事番などを勤めています。(浅草御蔵は、幕府の直轄領からの年貢米を保管しておく蔵で、重要な場所でした)そのようなお役目のためにつくった羽織なのでしょうか。また、江戸屋敷や富山城が大火事に遭った時に着たものなのかもしれません。



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 この特別展では、富山に江戸時代から近代にかけて起こった大きな災害と、富山の町の変わりゆく姿をご紹介しました。このたよりでは、火事について取り上げました。
江戸時代 
富山の大火事


 富山では再三、大火事に見舞われています。(略年表参照)千戸以上の民家が焼失した大火が5回ほども起こっているのです。
江戸時代 富山の火事略年表
年代(西暦)  <>は出火場所、他は焼失数や場所など
慶長14年(1609) 3月 <鼬川端 柄巻屋三郎兵衛(彦三郎)宅>
富山城、侍屋敷、町家など悉く焼失
延宝3年(1675) 閏3月 <西田地方 細野弥左衛門の長屋>
町家数千戸、富山城本丸・三の丸
          4月 <中村孫市宅>数百件
元禄元年(1688) 4月 <仁右衛門町 紺屋興四兵衛>
町家290戸、家臣陪臣屋敷38戸
正徳4年(1714) 2月 <富山城内坊主部屋>本丸の殿宇
延享3年(1746) 4月 大火
明和7年(1770) 7月 <三番町 時計屋平治宅>
20町、896戸、2千人難渋
寛政4年(1792) 4月 <寺内町> 300戸ほど
文政4年(1821) 4月 <愛宕町 商人の高木屋治郎兵衛宅>
愛宕神社ほか853戸
天保2年(1831) 2月 <中町>50戸ほど
spacer.gif 4月 <西田地方 浜田弥五兵衛宅>
 93町2村、8343戸、富山城など
安政2年(1855) 2月 <中野村 農家の平蔵宅>
72町3村、5851戸、富山城など
文久3年(1863) 2月 <中野町散地 生地屋庄五郎宅>
71町、6800戸余り、富山城など
慶応2年(1866) 8月 <仁右衛門町 室屋徳兵衛宅>
 千戸余り
天保2年の大火

 この中で富山町最大の火事は、天保2年(1831)に起こったものです。4月12日正午頃に浜田弥五兵衛宅より出火し、南風にあおられてたちまち燃えひろがりました。富山城も全焼してしまったのです。この時人家・寺社など合わせて8300戸余りが焼失し、死者を70人も出したのです。

 下の『旧富山城下市街図』には、この時延焼した富山町の範囲が、黒線で示されています。地図上に現在の町名を所々に示しました。こんな広い範囲を焼失し、8000戸もを焼失するような火事が起こるとは、現在ではちょっと考えにくいことですね。

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江戸時代の火事にまつわるちょっとした話をご紹介します


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 天保2年の大火の際、火元となったのは浜田弥五兵衛・谷七兵衛宅付近といわれており、この火事のことを「浜田焼」と呼んでいたようです。また当時の狂歌では、
谷浜田 誰が火元か知らねども 谷という字は火の口と書く
と詠まれたそうです。確かに火と口を組み合わせると、「谷」という字に見えますね。また谷・浜という水に関係した名字をもった家から出火したのも、奇妙に思われたということなのでしょう。 3403.gif

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 江戸時代の初期には、江戸の1町に軒の割合で髪結いが営業していたようです。髪結いは、かなり公共的な仕事もしていました。
・町奉行所や町会所付近に火事があるとかけつけ、奉行の差配を手伝う
・橋詰での通行人の監視、橋上の掃除を行う
・牢
(ろう)内の人々のひげ剃りや髪結いに出向く
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竜吐水

消防ポンプ。農業用としても利用された。横に渡した棒を両側より交互に手押しして水を汲み上げ、上部の筒より水が吹き出る仕組みになっている。
 このような江戸の髪結いをまねたかどうかは不明ですが、富山でも髪結いが火事の際に消火活動を行う、竜吐水(りゅうどすい)の係を申し付けられました。
 文化2年(1805)の申渡書には、「火事が起こったら早速に町吟味所(まちぎんみしょ)へかけつけること」とされています。また普段着のままでかけつけ、目印として渋(しぶ)塗りに「水」と字を入れた笠をかぶる、などのことが決められていました。

 しかし火事の多かった富山のこと、その度にかけつけるのは大変なことだったのでしょう。髪結いはだんだんと出動しなくなっていったようです。それで町奉行所から髪結いさんに厳しいお触れが出ました。「火事の際にかけつけない者は、髪結株を取り上げる」、つまり営業できなくなるということです。町の安全を町人自身で守るという大事な役目を申し付けられた髪結いさんですが、家業を中断してまでも火事にかけつけなければならなかったとは、なんだか気の毒な気もしますね。

富山は何度も災害に遭っていますが、私たちの先人はそれを乗り越えて、現在につながる新たな町をつくり上げてきました。今回展示でご紹介した歴史上の災害は私たちに無関係ではなく、今後の防災対策に生かされているものなのです。



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 この郷土博物館(富山城)のある城址公園の北西に、殉職警防団員の慰霊碑があります。大きな石を積み上げた土台の上に立っています。
 これは昭和15年(1940)皇紀2600年を記念して建立されました。
 明治42年から昭和15年までの30年間で、消防・水防活動中に亡くなった消防組員および警防団員20名の霊をまつり功績をたたえるものです。また第二次大戦中に活動していた当時の消防関係者の志気を高めるという意味も込められていました。
 警防団は昭和14年に結成されたものです。防護団(防空)と消防団(火防・水防)を統合し、警察の指揮下にありました。

 この塔の横には明治天皇の歌碑も立っています。明治40年に詠まれた歌で、万葉集の中の歌が基にされています
事しあらば 火にも水にもいりなむと 
思ふがやがて やまとだましひ

 事故があったときには、火の中水の中飛び込んででも、救助しようとするその心こそが大和魂だという勇ましい歌です。
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公園に来られた時は、この石碑もぜひ見上げてみてください。現在も災害の時などにかけつけてくださる方々に感謝しつつ…。


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