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mark.gif 第三十三号
平成11年9月17日
●中教院て…何?



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 富山駅からバスに乗って西町(にしちょう)方面へ向かいます。「西町」のバス停を過ぎると「次は中教院(ちゅうきょういん)前」のアナウンスが流れました。よく見ると、バス停のすぐそばの信号機の横にも「中教院前」と書かれています。「中教院」て何だろう。不思議に思ったことはありませんか?今回はこの疑問を解き明かしてみましょう。



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 中教院前の交差点から北へ入ると、そこは中教院通りです。商店が並ぶこの通りの一角に、ひっそりとした小さな祠を見つけました。石柱に「富山中教院」と書いてあります。どうやら、これが“中教院”のようです。この小さな祠は一体何なのでしょうか。時は130年前にさかのぼります…

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spacer.gif spacer.gif  明治維新当時、新政府は天皇を中心とした神道(しんとう)思想(大教(だいきょう)によって国をまとめあげようと考えました。これを人々に広めるために教導職(きょうどうしょく)が設けられ、すべての神官・僧侶等が兼任させられました。神仏合同による布教が求められ、以後、教導職でない人は、一切の宗教的布教活動は出来ないことになったのです。そして、教導職をまとめたり、大教を広めるための指導機関として、東京に設けられたのが「大教院(だいきょういん)」です。更に、その下部機関として各府県に設けられたのが「中教院(ちゅうきょういん)」や「小教院(しょうきょういん)」なのです。 spacer.gif spacer.gif



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spacer.gif spacer.gif  さて、富山に中教院が設置されたのは明治6年、場所は餌指町(えさしまち)」(現堤町通り)でした。ちょうど中教院前交差点の辺りです。当時は道はここまでで、西町から来るとつきあたりに位置しました。元は勝興寺(しょうこうじ)支坊の境内地だった所です。江戸時代の地図と明治時代の地図を見比べるとそれがよくわかります。寺院の大きな境内地が削られて、中教院敷地に充てられたのには、神仏分離・廃仏毀釈(しんぶつぶんり・はいぶつきしゃく)という時代背景があったからでしょう。






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(1)富山城下絵図(江戸時代後期
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神仏分離・廃仏毀釈

 江戸時代までは仏教と神道は様々な面で混じり合っていました。それを、はっきりと分けようというのが神仏分離政策です。ところが、実際は分離だけに止まらず、仏教廃止運動にまで発展しました。いわゆる廃仏毀釈で、多くの寺院や仏具などが破壊され、寺領は没収されました。
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(2)富山市街見取全図(明治18年)

(1)は江戸時代後期の通坊(勝興寺支坊)、(2)は明治18年の同じ場所の様子 勝興寺の敷地が削られたことがよくわかる。


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神宮教会所
明治20年越中富山市街図より
堤町通りから正面を見たところ
spacer.gif spacer.gif  神仏合同の布教活動は、仏教側の抵抗も激しかったため、結局うまくはいかず、明治8年に大教院は解散しました。その後、教導職統一の機関として神道事務局が置かれ、局内には新たに神道大教院が設けられました。各府県に置かれた分局・支局内には、中教院・小教院が置かれました。この大中小教院は、名称は同じでも、以前のものとは性質が異なるものです。富山の場合は、同じく餌指町の元中教院跡に置かれました。その後、明治15年、同所には神道の一派である神宮教が経営する神宮教会所が置かれました。天照大神(あまてらすおおみかみ)の分霊を祀った伊勢神宮の説教所です。人々は以前のまま「中教院」と呼んでいました。 spacer.gif spacer.gif

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「越中国富山神道事務分局 中教院・神宮教会 神殿之図」
立派な神殿には多くの参拝客が訪れ、門前は通行人で賑わう。松浦守美が下絵を描いた版画。明治15年頃の様子。



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 江戸時代、富山城下町で最も賑わった繁華街は、この中教院前でした。もちろん、江戸時代には“中教院前”ではなく勝興寺支坊の門前町でした。人々に“通坊(つうぼう)の名で親しまれたこの寺は、高岡伏木の勝興寺(真宗本願寺派)の支坊です。また、通坊より北の川端町(かわばたまち)(現豊川町(とよかわちょう))には真宗本願寺派の説教所もありました。真宗王国である富山のことですから、さぞ多くの参詣客で賑わったことでしょう。当時の中教院通りは、現在よりさらに南北にのびており、また、周囲には商店のほか、新富座(しんとみざ)という劇場や様々な興業所がありました。当時の案内記によれば「衆人常に雑沓し神楽(かぐら)の音曽(かつ)て絶へしこと」がなかったということです。 spacer.gif spacer.gif

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 中教院前といえば、夏の夜店が有名ですが、中教院前に夜店が並ぶようになったのは、明治37年頃のことだそうです。当時この通りには火防線(かぼうせん)が走っていました。火防線とは、火事の際に延焼を防ぐため、道路の真ん中に設けた水路のことです。中教院前を含む一帯は、明治18年に大火によって焼き尽くされました。そのため、このような水路が設けられたのです。火防線沿いには柳や松の並木が植えられ、夏の夜には涼みがてら多くの人々が訪れました。中教院前の夜店は、戦災による一時中断の後、昭和25年頃に復活し、現在に至ります。 spacer.gif spacer.gif
火防線
これは木町から中野町に設けられた火防線の写真

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 中教院は、大正14年に、鹿島町(護国神社の近く)に移転しました。これは、西町から堤町通りを通って、旧日赤病院の方面へ行く市電を通すためです。中教院はちょうどその路線上にあったのです。この路線は昭和3年に開通し、ここに出来た電停の名は「通防前」でした(現在は廃線)。さて、地図を確認すると、昭和10年頃から、護国神社の東方に「大神宮」の文字が見えます。神宮教会所が移転の際に名称変更したのでしょう。しかし、これは昭和20年の大空襲で焼失してしまいました。

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昭和8年富山市街地図(部分)
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点線が市電路線。
矢印の位置が中教院があった場所。
前出の(1)(2)とほぼ同じ部分。
移転した大神宮
昭和15年富山市街地図

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spacer.gif spacer.gif  中教院通りの一角にひっそりと建つ小さな祠。これは戦後、その由緒を知る有志の手によってまつられた「中教院」です。前を行き交う人達は、「これ何?」と不思議そうに通り過ぎていきます。実はこういうことだったのです。
バス停の名前への疑問から始まって、こんなにいろんなことがわかりました。あなたも、日頃、何気なく思っている疑問について調べてみると、意外に大きく広がっていくかもしれませんよ。
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現在の中教院




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