聖徳太子像 |
||
佐々木大樹(ささきたいじゅ)(1889〜1978) | ||
|
|
当館が所蔵する作品の中から、工芸品とその作者(富山にゆかりある作家)の一部を紹介します。 |
高岡市金屋町に生まれ、本名は芳春といいます。 高等小学校の頃に釜作りを父に習うようになり、その技を修めます。作家として昭和17年(1942)から日本美術展覧会(日展)へ出品、また日本伝統工芸品展へも出品するようになります。また、日本工芸品北陸支部より独立して富山会支部を創立、初代幹事長となり後援者の育成にあたりました。昭和39年(1964)の伝統工芸品展では会長賞を受賞した文化庁買い上げとなりました。 |
|
竹林文菱形釜 昭和54年 第26回伝統工芸品展への出品作 |
大沢野町に生まれ、名は菊太郎といいました。 富山県立工芸学校(現在の高岡工芸学校)を卒業、その後東京で木像嵌の技術を習得します。帰郷しさらに研究を重ね独自の方法を開発します。木工芸の木彫象嵌(もくちょうぞうがん)技術(木象嵌)(もくぞうがん)とは、木材の色や木目を生かし、台木に嵌め込んで図柄を仕上げるもので、正倉院御物(ぎょぶつ)の中にすでにみられた技術でした。江戸時代末期にその技術は再興され、さらにそれを中島杢堂は発展させたのです。 昭和初めに工芸展に出品した、篁(たかむら) 牛人(富山出身の画家)の図案を用い共同制作した木象嵌の作品が、絶賛され数々の賞を受けました。 昭和39年には富山県指定無形文化財に指定されました。富山の自然を題材とした作品も多く残っています。 |
|
天平の春 木象嵌の衝立 |
現在の富山県東砺波(となみ)郡城端(じょうはな)町で始められ、独自の発展をした漆工芸品が、城端蒔絵(じょうはなまきえ)(城端塗)といわれる作品です。創始者は、天正年間(1570年代頃)に城端に移住してきた又兵衛之綱と、その一族で長崎で中国人から漆絵の秘伝を受けた治五右衛門好永の二人が挙げられています。その技を受け継ぐ人が、代々小原治五衛門を名乗っているのです。 | |
城端蒔絵 鶏草花文茶箱 昭和58年 |
江戸時代に入ると加賀藩の保護のもとに、調度品や小道具類などの藩の御用品を手掛けるようになります。 江戸時代には金銀箔粉で模様をつける漆工芸が主流でした。一方、城端蒔絵は、秘伝とされる白漆と、鮮やかな色漆を使って図柄を描き込むことが特徴でした。 七代=林好、八代=宗好、九代=房好は江戸期の名匠として名高く、多くの名品を生み出しています。そして、十四代=白照は伝統ある城端蒔絵を現代に受け継ぎ、製作を行っています。 |
|
城端蒔絵 菊文棗 昭和58年 |
現在の富山市東岩瀬に生まれます。漆工芸作家。 高岡工芸学校を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)漆工科に進み、卒業後も教官として後進の育成にあたりました。 昭和11・12年に工芸美術研究の視察のため、文部省より欧米諸国に派遣され、新しい造形感覚を身につけ帰国しました。このような経験が、色漆を使った斬新な図柄の作品に結び付いたのかもしれません。 日本美術展覧会(日展)が社団法人として発足した際に事務局長・理事長などを歴任し、日展発展の礎を築きました。昭和41年には文化功労者となりました。 |
|
黒塗蒔絵丸形掛鏡 昭和4年 |
(関連する多くの文献を参考とさせていただきました。) |
夏の風物詩といえば、花火を思い浮かべる方も多いことでしょう。現在では各地で大きな花火大会が開かれ、たくさんの人でにぎわいますが、江戸時代の富山では、花火が禁止されていた時代もあったようです。次に挙げる文は、富山藩の役所が文化3年(1806)7月14日に出したお触れです。 |
(『町吟味所御触書』より) |
|
|
|
▲UP |
←博物館だよりINDEXへ戻る | (記:兼子 心) |