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『梅に蘭』 |
石川呉山 |
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石川呉山(いしかわござん)(1844〜1917)は、富山城下の鹿島(かしま)町(現 富山市鹿島町)に生まれました。名は熊太郎(くまたろう)、のち逸翁、潤川、呉山などと号しています。 長崎では禅僧の鉄翁などに南画(なんが)(文人画)を学びます。幕末の混乱期の中、慶応3年(1867)に中国(当時は清(しん)国)へ渡り、本場中国の絵画の運筆の技術を学び、様々な都市を訪れたのち、明治3年(1870)日本に帰国します。この作品は帰国してから、明治9年の作と記されています。 明治14年頃より石川県・富山県内でも本格的にキリスト教布教が始まり、呉山の父母は金沢の牧師より洗礼を受けます。呉山も明治18年には洗礼を受け、同24年には東京の伝道学校へすすみ、卒業の後香川県などでキリスト教伝道に努めました。晩年には富山に帰り、若い頃修めた南画をよくしたということです。 大きな花瓶に、たくさんの花をつけた梅の枝と、籠に盛られた蘭。絵に彩色はされていませんが、春の雰囲気を感じさせてくれます。 |
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前田利家・利長といえば加賀百万石の基礎を築いた人物として知られています。利家の息子 利長は、越中国の大半を領有し、富山城にも居留していたことがありました。その頃の利長を追ってみることにします。 |
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永禄5年(1562)、尾張(おわり)国荒子(あらこ)(現 名古屋市)に、前田利家の長男として生まれます。幼名は犬千代・孫四郎、利勝のち利長と名乗ります。 父とともに織田信長に仕え、天正(てんしょう)9年(1581)には能登(のと)国を領地として与えられ、その後越前(えちぜん)国の府中(現 福井県武生(たけふ)市)の城主となります。この頃 織田信長の娘(永、玉泉院)を妻に迎えています。 天正10年に本能寺の変で信長が亡くなり、翌年には豊臣秀吉から加賀(かが)国松任(まっとう)の地を与えられました。さて、その後のことです。 |
![]() (1585) |
利長に越中国の三郡(射水(いみず)、砺波(となみ)、婦負(ねい))が、豊臣秀吉より与えられる。 (豊臣秀吉が富山にて、敵対する佐々成政を攻撃。 成政は降参し、新川郡のみを領土として認められた。) そして越中国の領地の支配のため、利長が守山城へ移る。 |
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▲利長が天正13年以降に入った城を示しています。 (*金沢城のみ加賀国にあります) |
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<現 富山県高岡市東海老坂> | |
1300年代に、二上山(ふたがみやま)支峰に築城される。二上城や師子頭(ししがしら)城などとも呼ばれた。山の上からの見通しがよく、街道も近くにあり交通に便利な場所でもあった。利長が入城する前には神保(じんぼ)氏が居城としていたという。 |
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佐々成政が肥後国(熊本県)へ領地替えとなる。 成政の領地であった新川郡は、豊臣家蔵入地として利家に預けられる。 |
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利長が守山城から富山城へ移る。 |
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<現 富山県富山市本丸> | |
《この富山市郷土博物館のある場所です。》 16世紀半ばに神保(じんぼ)氏によって築城。その後様々な戦の拠点となるが、天正10年(1582)には佐々成政の居城となる。同15年には前田氏の持城となった。 |
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富山城本丸南側の石垣 比較的古い時代のもの |
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利長が前田家の家督を継ぎ、前田家の本拠地である加賀の金沢城へ移る。 |
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<現 石川県金沢市丸の内町> | |
天文15年(1546)石川郡石浦庄と呼ばれていた地に、加賀一向宗の拠点となる御坊として建てられた。織田信長からこの地を与えられた佐久間盛政が、戦国期の城郭として大改修を行なった。その後前田利家が入城、主に利長が城の整備を指揮した。 |
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利長の母 芳春院(ほうしゅんいん)、人質として江戸に向かう。 |
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利長の弟 利常(としつね)に、二代将軍徳川秀忠の娘 珠姫が嫁入りする。 |
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利長が利常に家督を譲り、隠居して金沢城から富山城へ移る。 |
![]() (1609) |
3月18日 富山城下のいたち川端より出火し、富山城や周辺の町が火事でほぼ焼失。利長は魚津城に移る。 |
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<現 富山県魚津(うおづ)市本町> | |
室町時代中期(14世紀〜15世紀頃)、椎名(しいな)氏の築城とされる。16世紀後期には上杉氏の越中攻略の拠点となっていた。佐々成政の攻撃で城は佐々氏の拠点となるが、肥後に転封後は前田氏の持城となる。 | |
魚津城想像図 『富山市史』より |
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9月13日 利長が高岡城に移る。 |
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<現 富山県高岡市古城> | |
慶長14年、当時 射水郡関野と呼ばれた土地に、利長によって築城された。幕府(徳川家康、秀忠)の許可を得、高山右近によって設計されたという。元和元年(1615)に一国一城令で廃城になるが、堀などの遺構はほぼ原形のまま残され、現在は古城公園として利用されている。 |
![]() (1614) |
利長、高岡で没。 妻の玉泉院は、元和9年金沢で没。金沢城の郭にその名を残している(玉泉院丸−本丸の西南)。 |
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国宝の瑞龍寺仏殿 |
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<現 富山県高岡市関本町> | ||
利長が慶長18年に曹洞宗の法円寺を高岡に創建した。この寺が利長の菩提寺となった。前田家3代当主の利常(としつね)は、兄利長の冥福を祈り、正保3年(1646)利長の33回忌に、利長の院号にちなんで瑞龍寺と改称。利常によって新たに寺の建物の造営がなされた。平成9年に仏殿などが国宝指定。 |
高岡の地で亡くなった利長ですが、もし、慶長14年の火事がなかったら、利長は富山で新しい城・町づくりを始めたかもしれません。 利長が去った後、富山城は富山藩の居城となります。初代藩主 前田利次(としつぐ)が富山城に入城するのは寛永17年(1640)、本格的な修築が始められたのは、寛文元年(1661)のことでした。 |
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