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mark.gif 第二十二号
平成10年11月19日
●収蔵品紹介  ●富山に富士山があった!?
●第10回歴史探訪ツアー



収蔵品紹介
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spacer.gif『明治25年 富山市実測全図』

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一部拡大
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 この図は明治25年に発売された富山市街の実測図で、町ごとに色分けされ、周囲には主要建築物の絵が配されているものです。城址には県庁や監獄署があり、神通川はその北側を蛇行して流れています。右下隅の方には当時の富山市の統計事項が書かれており、これによると人口は男が28,630人、女が29,212人で、戸数は13,429戸となっています。
 さて、この地図には初めから書かれていたものではなく、当時の所有者の、ある書き込みがあるのです。この地図が発行されてから7年後の明治32年8月12日、富山市は大火に見舞われ、市街の大半が焼失しました。この地図には、その際の焼失地の範囲が朱書きで示されているのです。また周囲に配された建物の内、被災したものには「焼失」と記入されています。新聞などを参照して書き入れたものなのでしょう。


 ところで、この地図をよく見ると、面白いものが発見できます。市街地の西の方に「富士山」という文字と山型が記されているのです。これは一体何でしょう?
 今回は富山の「富士山」のお話です。

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 富山に富士山なんてないよ!そう、確かに今はありません。しかし、40年くらい前まではあったのです。「磯部(いそべ)富士」という富士山が、護国神社の隅にひっそりと…覚えている方も多いでしょう。では、あの“富士山”はなんだったのでしょうか。
 実はあれは富山のお殿さまが造ったものなのです。そのお殿さまの名は前田正甫(まさとし)!

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 正甫は富山藩二代藩主として藩政の充実に力を尽くした人物で、富山売薬の祖として有名です。そして、この正甫が元禄15年に造らせたのが磯部御庭です。 2203.jpg
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 正甫は、当時の磯部村にあった家老近藤善右衛門の下屋敷(現在の鹿島神社の辺り)で生まれたといいます。そのため磯辺村の鎮守である鹿島神社を深く崇敬していました。そこで、磯部村から諏訪川原(すわのがわら)にかけての一帯を御用屋敷という富山藩の用地とし、ここに鹿島神社の社殿を新築、これを中心に一大庭園を設けることにしたのです。
前田正甫
城址公園内銅像

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 では、磯部御庭とはどんな庭園だったのでしょうか?
 まず、神通村から引き出した巨石で石山を築き土を盛り、富士山という築山を造りました。そしてこの山に、梅・桜・桃・柳・李(すもも)・梨を植えて、ふもとには茶の木山やツツジ山などを造り、山吹・紅葉など四季の草木花を植えました。城から磯部までの間には東海道の名所を模し、琵琶湖を形づくり、その周囲には八景をつくり、茶亭も設けました。また、この大庭園には、東南に立山連峰、西に呉羽山、すぐ横には豊かな神通川の流れという天然の背景も添えられており、金沢の兼六園にも劣らぬ立派なものでした。
 この庭園は神通川のすぐ東にあることから、富山の町を水害から守るために造られたのだとも、或いは幕府に敵対心を持たないことを表すために多額の費用を惜しまずに造られたのだともいわれています。

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磯部村御庭園之真景図
 庭園を描いた鳥瞰図。画面右側が富士山。江戸時代後期の作とされる
(当館ではその複製を所蔵)。


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 さて、これで“富士山”の正体がわかりましたね。お殿さまが造った大庭園の一部だったのです。しかし残念ながら、この名庭は正甫の没後放置され荒廃してしまいました。そして“富士山”だけが残ったのです。
 では、唯一残った“富士山”のその後の経緯を見てみることにしましょう。


meisyo.gif   (明治時代の富士山)

 “富士山”は、明治大正期の多くの富山の案内記に磯部御庭跡として紹介されています。これによると庭園跡は荒廃し、現在田圃や市街となっていると書かれています。富士山については明治時代中期頃には、すでに全体の3分の1しか残っておらず、水田の中に大石が埋没しているという状態であったようです。また、当時の地図・絵図類には「富士山」として山型が記入されているものが多くあります。(表紙の地図もそのひとつです) 2205.jpg

明治時代の磯部富士

周囲は水田で囲まれる。


syoukounn.gif   (大正時代の富士山) 

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靖国神社やに合祀された、富山県出身の英霊をまつるために、大正2年招魂社(しょうこんしゃ)が造られました(後に護国神社と改称)。社地には“富士山”も含まれていました。この当時、“富士山”には所有権があったようで、富山電気且謦役の橋本孝が、持ち主の今村重寛から時価千円といわれた“富士山”を半値で譲り受け、招魂社に寄付したということです(『「大正の富山」−新聞に見る(1)』)。 
招魂社内の磯部富士
子供の後方の崩れ掛かった土山


enntaigou.gif   (昭和戦前の富士山) 

 
太平洋戦争に突入し、本土が空襲の危険に曝されるようになった頃、“富士山”に大きな穴があけられました。護国神社の御霊代および消防ポンプ自動車の掩待壕(えんたいごう)(防空壕)にするためです。
 ポンプ自動車を5台分収容できる大きなもので、昭和20年4月25日に完成しました。  そして約3ヶ月後の8月2日の富山大空襲によって、護国神社は手水鉢以外の全ての社殿を焼失しましたが、御霊代は“富士山”に守られて無事だったのです。 
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掩待壕
「北日本新聞」昭和20.4.28


tekkyo.gif   (昭和戦後の富士山)

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 磯部の“富士山”は戦前戦後を通じて子供たちの遊び場となっていました。山に登って遊んだという話をよくお聞きします。しかし、この“富士山”は昭和32年3月13日に撤去されることになりました。
 正甫の築造から約250年後のことでした。そして、跡地には護国記念館が昭和42年に新築され、現在にいたります。
護国記念館


 さて、富山にあった“富士山”のこと、わかりましたか?
 富山を訪れた人々は、この“富士山”を見たことを日記に記し、歌や詩に詠み込んでいます。遠い時代のことを偲び、感慨にふけさせる何かがあったのでしょう。護国神社を訪れた時には、「お殿さまの御庭」と250年間富山の町にあった“富士山”のことを思い出してみてください。


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 恒例の歴史探訪ツアーを、去る10月31日に開催いたしました。解説を聞きながら富山の古い道を歩くというこの企画も、今回で10回目となります。
 さて、今回は京田良志(きょうだりょうし)先生(国立工専講師)を講師にお迎えして、願海寺から追分茶屋までを歩きました。
 このルートには現在も舗装されていない箇所もあり、所々に昔の面影を見ることができます。明治天皇が北陸巡幸の折に休憩所となった家や道しるべ地蔵などが昔のままに残っているのです。そして、重要なのが「願海寺七曲がり道」です。昔は願海寺の辺りで道が何度も直角に曲がっており、現在でもその一部が残っています。出来るだけその道を通りながら解説していただきました。 
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 『越乃州研究資料 こまさらへ』(昭和11年)に書かれている越中名勝の項の「名物」の中で「越中富士山、願海時村七廻り」としてとりあげられているんですよ。


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 去る11月10日に長らく市民に親しまれてきた、城址公園東南角の時計塔が、老朽化のため撤去されました。
 この時計台は昭和37年に、富山青年会議所が創立10周年を記念して建てたものです。高さ12m、巾2m角の日本調行灯型(にほんちょうあんどんがた)の時計塔で、7月8日に除幕式が行われました。その後、昭和55年に一度改修が行われていますが、近年老朽化が著しいため、このたび引退することとなりました。

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完成間もない時計台 解体された時計台

 36年間富山の時間を刻んできた時計塔です。失われてしまっても、城址公園のシンボルとして存在した事実は、富山市の歴史の1ページに刻みこまれます。



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