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第九号
平成9年10月25日
収蔵品紹介



特集 特別展 富山の刷りもの


収蔵品作品
『俳諧 玉飛路ひ(たまひろい多磨比路飛(たまひろい)
安政3年(1856)刊  麦仙城烏岬 編  乾坤(けんこん) 2冊


 この俳句集は江戸時代後期に、木版印刷によってつくられました。
 内容は、越中(富山県)の名所30カ所余りを選び、その各地方の人が詠んだ俳句を、絵とともに載せたものです。名所絵も絵師が分担して描いています。
 上の絵はその中の1ページです。この浮世橋(神通川の舟橋)の絵は、松浦守美(まつうらもりよし)という絵師によるものです。守美はこの俳諧本の中では、浮舟橋をあわせて6枚の絵を描いています。
 このような絵入りの俳諧本が富山の町の中で印刷・出版され、その中の数点が現在でも見ることができるわけです。





 この特別展「富山の刷りもの」では、江戸時代に富山で刷られた木版の本や版画などを紹介するものです。ここでは大きくテーマを3つに分けています。
 
 (1)富山藩、また藩校 広徳館(こうとくかん)に関するもの
 (2)民間で出版された俳諧本、文学書など
 (3)富山売薬に関係するもの―売薬版画・薬袋・効能書など


この3つのテーマすべてに共通して登場する人物たちがいます。それが今回の展示のキーワードとなっているのです。その人々について説明しましょう。

*各テーマの番号(1)(2)(3)の順で、関連することを挙げていきます*


松浦  守美

松浦守美(まつうらもりよし)は富山の絵師で、雪玉斎春信の子。
文政7年(1824)〜明治19年(1882)。
名は安平、号は応真斎で、版画の下絵ほか絵馬も描いています。

(1) 『本草通串証図』(嘉永6年(1853)刊)の中の植物の絵を描いています。
写生をもとにたくさんの植物を描いています。
写真のない時代に、植物の姿を知るには十分な木版画でした。まるで現在の植物図鑑のようです。
『本草通串証図』とは、富山10代藩主 前田利保(としやす)が編纂した『本草通串(ほんぞうつうかん)』の図版。
本草
(ほんぞう)とは薬になる植物・動物・石などを指します。
守美のほかに山下守胤
(もりたね)、山下弌胤(かづたね)、木村雅経(ただつね)(立嶽(りゅうがく))が絵師として参加しています。
山下守胤は守美の絵の師匠にあたります。

本草通串証図より
『本草通串証図』より
(富山県立図書館蔵)

(2)俳諧本の挿絵をたくさん描いています。
八重すさびより
上で紹介した『俳諧 玉飛路ひ(はいかい たまひろい)』の他に、『俳諧画讃百類集』『八重すさび』等にも絵を載せています。


これらは富山の人々が作った句を載せた俳句集です。この俳諧本の中では、挿絵は俳句の主題を表現することもあり、大変重要な役割をしています。守美は風景や対象物を的確に捉え、わかりやすく描いています。
『八重すさび』より
(富山県立図書館蔵)

(3)売薬版画の絵師として明治期まで活動しました。
売薬版画は、江戸・明治期に売薬さんが薬のおまけとして、得意先に配った安価な版画です。


守美は、国美、国義、守義などの名前を使い、江戸後期・明治初期の売薬版画絵師としてはいちばん多く作品を残しています。
熨斗絵
(売薬版画)熨斗(のし)絵 
(富山市売薬資料館蔵)

荻田氏

荻田(おぎた)氏は本や版画の版木を彫る職人です。版木師、彫刻師、彫師、彫工、彫刀師、などと表記されています。

(1)広徳館本『四書五経』に版木方として刻名しています。
広徳館本『四書五経』
『四書五経』は富山藩校の広徳館(こうとくかん)から出版された儒教の書物で、慶応2年(1866)刊、全21冊です。
鶴棲堂(かくせいどう)(民間の版元)蔵版として出版されたものもあります。

この本の巻末に「富山版木方」として「古川宜衛 荻田永治」と記されています。古川氏は、藩士として代々 広徳館版木方を勤めてきましたが、一方 荻田氏は民間を代表する版木師として『四書五経』の作成に参加したと考えられます。
広徳館本『四書五経』
(富山県立図書館蔵)

(2)民間出版物の彫師として活躍しました。
俳句集『葛(くず)の実』(文政2年(1819)刊)は、荻田一蓬が版木を彫ったのです。富山の民間出版物の中で、初めて荻田氏が「版木師」と自ら称して記しました。

その後 荻田氏一族やその弟子とみられる人物が、たくさんの民間出版本の彫刻をしています(場合によっては刷りも行っています)。それぞれの作品は次のとおりです。
一蓬  …葛の実
籐兵衛 …俳諧画讃百類集、俳諧 玉飛路ひ、八重すさび、俳諧四季織
永治  …清言帖、狂歌 毛毬俵、可路里贅語、四書五経

(3)売薬用の薬袋や効能書の版木をつくりました。

中田家の効能書の試し刷りに書き込みがあります。

中田家は屋号を茶木屋(ちゃのきや)と称した薬種商です。
奇応丸(きおうがん)などの薬を、5代目の当主が創製しました。
15代当主 清兵衛(密田家から養子)は、初代北陸銀行頭取、その四男 幸吉は公選4代目県知事となります。
また中田薬品、書籍販売の中田書店も経営しました。

年号や代金の書き込みとともに、「荻田永治 刻」などと試し刷りに記されています。
密田家の資料の中にも同様の資料があります。
奇応丸効能書
錦花香効能書 
錦花香(きんかこう) 効能書 
文化七(1810年)午十一月出来

荻田 彫刻
代 六百五十文 
(中田家文書より)

奇応丸(きおうがん)効能書
享和三(1830年)亥秋
荻田永治刻
(中田家文書より)

小西家・岡田家

小西家は明和3年(1766)富山の西三番町に小西屋(こにしや)(臨池居(りんちきょ))という寺子屋を創設しました。この寺子屋は明治32年(1899)まで続けられました。岡田家も私塾 学聚舎(がくしゅうしゃ)をひらいていました。

(1)富山藩・藩校広徳館(こうとくかん)の印刷物の序を書いています。


『本草通串証図』…岡田栗園が序の文章を書き、小西有斐が文字そのものを書いています。
広徳館本『四書五経』…小西有実・有義が序の字をそれぞれ書いています。

これは小西家・岡田家の人が富山藩校広徳館の教授であったためと考えられます。(岡田栗園、岡田呉陽、小西有斐が広徳館の教授でした。)



(2) 寺子屋(または私塾)を営み、たくさんの子供たちを教えました。

小西家・岡田家の門人などによってつくられた有実・有義と岡田呉陽の顕彰碑が、富山市内の於保多(おおた)神社に建てられています。

小西家・岡田家が民間の出版物に直接関わったという資料は現在ありませんが、教育・文化の面では大いに貢献していたことでしょう。

(3)薬の効能書などの下書きをしていました。
商標合紋試刷
中田家の資料…判木手本、試刷に「有實
密田家の資料…商標合紋試刷に「下判小西屋」などと小西家の人々の名が記されています。(左横の写真)

密田家は屋号を能登屋と称した売薬商です。
売薬を行っていた範囲は東北・五畿内・紀州・四国・中国・九州にまで広がっていました。
近代には広貫堂、電気会社、北陸銀行の創設に携わっています。

売薬商人が、屋号の印や薬の効能書のなどの版木をつくるにあたって、その下書きを寺子屋の先生である小西屋の人々に依頼したのです。

商標合紋試刷
(密田家資料より)

富山の刷りものに関する松浦守実、荻田氏、小西家・岡田家を紹介しました。
このような技術者や知識人が富山の印刷文化を担っていたのでしょう。

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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:兼子 心)