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『富山物産陳列所』 |
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物産陳列所とは品評会や博覧会・展覧会などを開くことにより、生産物の改善を目指した施設です。その機能は商工奨励館・産業奨励館などを経て、現在は駅前cicビル5階のとやま観光物産センター(愛称 いきいきKAN)として引き継がれています。 | |||||
この写真は明治27年に山王町(日枝神社隣接地)に新築された、最初の物産陳列所です。開館に際して富山市設勧業博覧会が約一か月にわたって開催されました。大変な人気で会期中の見学者は約9万3千人に達しました。北陸最初の電灯がともされたのは、この会場においてでした。写真を見ると門柱に「富山市設博覧会」の看板が掛かっているのが分かります。開館を記念して撮影したものなのでしょう。 今回初めて公開の写真です。 |
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富山は明治維新以後、他の例にもれず近代的街づくりを進めてきました。富山は火事と水害が多いところで、街が整備されては災害で破壊されるということを繰り返していました。そんな状況下での街づくり。博覧会がどのように関わっているのでしょうか。 |
代表的な三つの博覧会にポイントをおいて考えます。 |
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大正2年に現在の富山いずみ高校(旧富山女子高校)の場所で開催されました。共進会は博覧会の前身の呼称です。 これまでの共進会との違いは、出品物の中心が農業関係から工業関係になったことです。また北陸本線の全通により、参加県が関東圏に広がりました。 |
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共進会会場風景 |
これを機会に市内軌道が開通。そのために道路の拡張整備が行われました。県内・県外各地への陸上交通網が整いだした頃です。そしてこの共進会は富山県が工業立県へ向かって動き出した始まりの時なのです。 |
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昭和11年に神通廃川地の埋立地で開催されました。重工業系の占める位置は益々大きくなっています。満州館・台湾館・朝鮮館・国防館があることが、時代背景を表していると言えましょう。そうした時期にも関わらず多くの人々が訪れました。 この時期に電気ビルや富山県庁、昭和会館など、後に大空襲でも焼け残ることになる、頑強なコンクリート建造物が建てられました。 |
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日満博ポスター |
昭和6年の満州事変以降、大陸への進出は甚だしく日本海側の富山県は重要な位置を占めていました。高山線の全通、富岩運河の開削、富山飛行場設置など街の整備は進んでいきました。そして何より市街を分断していた神通廃川地が完全に埋立てられたことが、その後の富山の発展に大きく関わっていきました。日満博が開催されたのは、まさにこの広大な埋立地においてなのです。 |
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昭和29年に富山城址公園で開催されました。 電気に力を入れた内容で各種の電気館がありました。 この時に前富山市庁舎・富山城(当館)・富山市公会堂が新築され会場の施設としても利用されました。 |
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富山博ポスター |
昭和20年の富山大空襲はそれまでの街並みを全て焼きつくしました。戦後の富山の街づくりは、まず復興からはじまったのです。再び建物を造り、道路を整備し街のかたちが成った頃、この博覧会は開催されました。富山にとっては“復興”が終り、“発展”へと進む節目となったのです。 |
博覧会は街が発展したから開催されるのか、街を発展させるために開催するのか。 この問いの答えは、“そのどちらにも当てはまる”でしょう。その丁度中間のポイントで行われるのが博覧会なのです。これまで博覧会は街の整備に大きく関わってきました。しかし、現在では博覧会は市街地では行われなくなり、直接街づくりと結び付くことはなくなりました。しかし今、富山駅北の開発が進んでいます。今後は博覧会というイベントがなくても、よりよい街づくり、市民が暮らしやすい街づくりが進んでいくことでしょう。 |
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博覧会名 | 開催年 | 開催場所 | 日数 | 入場者数 |
富山県米繭糸共進会 | 明治18年 | 総曲輪公会所 | 20 | 20,000 |
関西府県聯合共進会 | 明治33年 | 堀川村(現富山高校) | 50 | 155,000 |
一府八県聯合共進会 | 大正2年 | 堀川村(現富山いずみ高校) | 50 | 726,000 |
日満産業大博覧会 | 昭和11年 | 神通川廃川地埋立地 | 55 | 913,000 |
富山産業大博覧会 | 昭和29年 | 富山城址公園 | 54 | 740,000 |
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調査ノート | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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これは上で紹介した市設勧業博覧会の時の新聞記事の中にある挿絵です。写真と同じ建物ですね。記事にはその華やかな様子が書かれています。 (「北陸政論」明治27年5月23日付) 上の写真と見比べてみてください! |
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