富山城址の変遷 |
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明治4年3月に廃藩置県が行われ、新たに富山県が設置されました。県庁には旧本丸御殿が充てられました。その後、新川県となり、一時魚津に移転した時期もありますが、それを除けば県庁は城址に置かれていました。しかし、同9年に石川県(県庁は金沢)に統合されたため、城址にあった県庁は廃止されてしまいました。同時に県庁跡には石川県の富山支庁が置かれましたが、同11年には廃止されました。 |
![]() 富山県庁
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富山県と県庁の動き
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これを受けて、富山の有志が城址保存のため、明治15年に公園として整備することになりました。人々は花や木を植え、景観を整えていきました。富山城の解体が進む中で、御殿が残る旧本丸部分の遺構だけでも保存したいという思いが湧きあがってきたのでしょう。 |
しかし、ようやく公園としての形が整った明治16年、石川県から富山県が独立し、また城址に県庁が置かれることになりました。その結果、公園は廃止され県庁敷地となったのです。同32年に初代県庁舎(旧本丸御殿)は焼失してしまいますが、その後も県庁敷地として利用されています。 |
![]() 富山県庁
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![]() 明治34年の城址
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なお、旧西之丸には明治32年まで監獄署(現在の刑務所)が置かれていました。同16年、西側の堀に土橋が架けられたのは、監獄署の出口とするためです。また、本丸と西之丸の間の堀は、同25年までには埋め立てられたようです。その後、旧西之丸は旧本丸と合わせて管理され、監獄署移転後には県会議事堂が建てられました。 |
![]() 旧西之丸の監獄署
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![]() 富山県会議事堂
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戦前の県庁は、用事のない人が気軽に近付けるところではありませんでした。周囲が堀で囲まれていることは、それを象徴しているようにも見えます。 |
こうして、昭和初期まで県庁敷地として管理されたおかげで、周囲が埋め立てられることもなく、旧本丸と西之丸部分は、富山城の面影を残す唯一の空間として残されることになったのです。 |
明治という新しい時代の到来により、旧体制に関わるものは、無用のものとして破壊されていく流れにありました。「城郭」もその1つです。これまで見てきたように、富山城もその多くが解体−破壊−され、遺構は失われていきました。一方で、解体は大きな“空き地”の出現を意味します。ここに新たな建物や道路が造られ、近代的な街づくりが次々と進められていったのです。富山城址は、新時代の到来を最もよく感じることができる場所となりました。 |
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それでは次に、唯一残された旧本丸・西之丸のその後を見てみることにしましょう。解体が新しい街づくりにつながっていた時代から、残された遺構を史蹟として保存しようとする動きが出てきます。 |
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