富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)
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てんしゅかくのけんせつ
天守閣の建設


昭和(しょうわ)20(ねん)空襲(くうしゅう)は、富山市街地(とやましがいち)壊滅的被害(かいめつてきひがい)をもたらしました。そして、昭和(しょうわ)29(ねん)人々(ひとびと)がようやく()(なお)ってきた(ころ)建設(けんせつ)されたのが「富山城(とやまじょう)」です。彦根城(ひこねじょう)犬山城(いぬやまじょう)など全国(ぜんこく)現存天守(げんぞんてんしゅ)参考(さんこう)に、(あら)たに慶長様式(けいちょうようしき)天守閣(てんしゅかく)がデザインされました。その姿(すがた)は、焦土(しょうど)記憶(きおく)生々(なまなま)しい市民(しみん)にとって、さぞ(うつく)しく、(かがや)かしい未来(みらい)象徴(しょうちょう)として(うつ)ったことでしょう。

建設中の「富山城」:写真
建設中(けんせつちゅう)の「富山城(とやまじょう)

博覧会中の「富山城」:写真
行列(ぎょうれつ)ができた「富山城(とやまじょう)

博覧会(はくらんかい)会期中(かいきちゅう)は「()殿堂(でんどう)」と名付(なづ)けられ、各種展覧会(かくしゅてんらんかい)開催(かいさい)されました。さらに、最上階(さいじょうかい)からは富山市街(とやましがい)のみならず立山連峰(たてやまれんぽう)まで一望(いちぼう)できたため、(おお)くの(ひと)(にぎ)わいました。「富山城(とやまじょう)」は博覧会(はくらんかい)の、そして戦災復興(せんさいふっこう)のシンボルだったのです。


博覧会終了後(はくらんかいしゅうりょうご)、「富山城(とやまじょう)」は富山市立郷土博物館(とやましりつきょうどはくぶつかん)として開館(かいかん)しました。富山市(とやまし)最初(さいしょ)博物館(はくぶつかん)です。(だい)(かい)展覧会(てんらんかい)は「富山市美術展(とやましびじゅつてん)」(市展(してん))でした。以降(いこう)郷土(きょうど)歴史(れきし)文化(ぶんか)紹介(しょうかい)する博物館(はくぶつかん)として、数多(かずおお)くの展覧会(てんらんかい)開催(かいさい)され、(おお)くの市民(しみん)観覧(かんらん)(おとず)れました。

「国宝法隆寺展」の様子:写真
国宝法隆寺展(こくほうほうりゅうじてん)昭和(しょうわ)38(ねん)

富山市史(とやましし)』より

チンドンコンクールと「富山城」:写真
(だい)13(かい)チンドンコンクール

昭和(しょうわ)42(ねん)

郷土博物館(きょうどはくぶつかん)富山城(とやまじょう))は、建設以来(けんせついらい)富山市(とやまし)のシンボルとして市民(しみん)(した)しまれてきました。チンドンコンクールや左義長(さぎちょう)背景(はいけい)には、いつも「富山城(とやまじょう)」が(うつ)っています。市内(しない)(おお)くの小学生(しょうがくせい)写生大会(しゃせいたいかい)で「富山城(とやまじょう)」を(えが)きました。「富山城(とやまじょう)」は富山市(とやまし)景観(けいかん)に、市民(しみん)意識(いしき)(なか)()()んでいます。


建設(けんせつ)から半世紀(はんせいき)平成(へいせい)15(ねん)からは、(やく)(ねん)をかけて耐震改修工事(たいしんかいしゅうこうじ)(おこ)うことになりました。ランドマークの「富山城(とやまじょう)」には(おお)いがかけられ、博物館(はくぶつかん)はしばらく休館(きゅうかん)です。


そんな最中(さなか)平成(へいせい)16(ねん)(がつ)建設(けんせつ)からちょうど50年目(ねんめ)(むか)えたこの(とし)市民(しみん)(した)しまれ(つづ)けてきた郷土博物館(きょうどはくぶつかん)富山城(とやまじょう))は、富山市(とやまし)のシンボルとして、戦災復興期(せんさいふっこうき)代表(だいひょう)する建築物(けんちくぶつ)として(くに)登録有形文化財(とうろくぶんかざい)登録(とうろく)されました。



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