空襲(くうしゅう)を経(へ)て、城址(じょうし)は変化(へんか)を余儀(よぎ)なくされました。空襲後(くうしゅうご)の瓦礫(がれき)を埋(う)めたり、戦災復興都市計画(せんさいふっこうとしけいかく)で新道路(しんどうろ)が建設(けんせつ)されたことなどから、周囲(しゅうい)に残(のこ)っていた堀(ほり)の埋(う)め立(た)てが進(すす)んだのです。
まず、空襲(くうしゅう)で焼(や)けた瓦(かわら)の処理(しょり)のため北側(きたがわ)の堀(ほり)が埋(う)め立(た)てられ、次(つぎ)に道路(どうろ)(現在(げんざい)の城址大通(じょうしおおどお)り)を新設(しんせつ)するため東側(ひがしがわ)の堀(ほり)が埋(う)め立(た)てられ、また城址(じょうし)の南東角(なんとうかど)も削(けず)られてしまいました。西側(にしがわ)も建物(たてもの)が建(た)てられるたびに埋(う)め立(た)てられていきました。そして最後(さいご)に昭和(しょうわ)37年(ねん)、旧消防署新築(きゅうしょうぼうしょしんちく)のために、西南隅(せいなんすみ)の堀(ほり)が埋(う)め立(た)てられたことにより、堀(ほり)は現在(げんざい)のような形(かたち)になりました。城址公園(じょうしこうえん)の外周(がいしゅう)と内側(うちがわ)に大(おお)きな高低差(こうていさ)が見(み)られるのは、そこが元(もと)は堀(ほり)であった名残(なごり)です。
昭和(しょうわ)46年(ねん)には、城址(じょうし)の地下(ちか)に駐車場(ちゅうしゃじょう)が建設(けんせつ)されました。急激(きゅうげき)な車社会(くるましゃかい)の発達(はったつ)の中(なか)で路上駐車(ろじょうちゅうしゃ)が多(おお)くなり、市街地(しがいち)において問題(もんだい)となっていたためです。北陸初(ほくりくはつ)の地下駐車場(ちかちゅうしゃじょう)でした。「車社会(くるましゃかい)」という新(あたら)しい社会(しゃかい)の到来(とうらい)による、違法駐車問題解決(いほうちゅうしゃもんだいかいけつ)のため必要不可欠(ひつようふかけつ)のものでした。しかし一方(いっぽう)で、城址(じょうし)の地下(ちか)に眠(ねむ)る貴重(きちょう)な富山城遺構(とやまじょういこう)の大規模(だいきぼ)な破壊(はかい)を招(まね)きました。
なお、城址(じょうし)は昭和(しょうわ)27年(ねん)に新(あら)たに都市計画公園(としけいかくこうえん)「富山城址公園(とやまじょうしこうえん)」として開園(かいえん)しました。そして、同(どう)29年(ねん)には戦災復興事業(せんさいふっこうじぎょう)の完了(かんりょう)を機(き)に、城址一帯(じょうしいったい)を会場(かいじょう)として富山産業大博覧会(とやまさんぎょうだいはくらんかい)が開催(かいさい)されました。その際(さい)、記念(きねん)の建築物(けんちくぶつ)として建設(けんせつ)されたのが三重四階(さんじゅうよんかい)の天守閣(てんしゅかく)「富山城(とやまじょう)」です。会期中(かいきちゅう)は「美(び)の殿堂(でんどう)」として各種展覧会(かくしゅてんらんかい)が開催(かいさい)され、終了後(しゅうりょうご)に郷土博物館(きょうどはくぶつかん)として開館(かいかん)しました。 現在(げんざい)、城址公園(じょうしこうえん)は市街地(しがいち)の貴重(きちょう)なオアシスであり、天守閣(てんしゅかく)は市街地(しがいち)のランドマークとなっています。
さて、江戸時代(えどじだい)の富山城(とやまじょう)と私(わたし)たちが暮(く)らす街(まち)をつなぐ糸(いと)は見(み)えましたか。約(やく)120年前(ねんまえ)まで存在(そんざい)した富山城(とやまじょう)は廃城後(はいじょうご)、長(なが)い時間(じかん)をかけて現在(げんざい)の城址公園(じょうしこうえん)と高(たか)いビルが建(た)ち並(なら)ぶ市街地(しがいち)に変貌(へんぼう)を遂(と)げました。城址公園(じょうしこうえん)の範囲(はんい)は、富山城(とやまじょう)のほんの一部(いちぶ)にすぎないのです。ここに至(いた)るには、多(おお)くの人々(ひとびと)の様々(さまざま)な思(おも)いや考(かんが)えがありました。今後(こんご)は、「富山市(とやまし)ノ生(う)ミノ母(はは)」(「富山城址保存(とやまじょうしほぞん)ニ関(かん)スル建議書(けんぎしょ)」参照(さんしょう))である富山城址(とやまじょうし)を、大切(たいせつ)に未来(みらい)へと伝(つた)えていかなければならないでしょう。
城址公園(じょうしこうえん)を散策(さんさく)すると、富山城(とやまじょう)の遺構(いこう)を見(み)ることができます。 郷土博物館(きょうどはくぶつかん)が建(た)っている辺(あた)りの石垣(いしがき)を見(み)てみましょう。ここは、本丸(ほんまる)の正面(しょうめん)に当(あ)たる場所(ばしょ)で、枡形門形式(ますがたもんけいしき)の鉄門(くろがねもん)があった所(ところ)です。鉤(かぎ)の手状(てじょう)に折(お)れ曲(ま)がっているのはその名残(なごり)です。そして、この石垣(いしがき)には普通(ふつう)の石(いし)よりも大(おお)きな石(いし)が6個(こ)積(つ)まれています。これは鏡石(かがみいし)といって、お城(しろ)を立派(りっぱ)に見(み)せるために積(つ)まれたものです。また、石(いし)の中(なか)にはいろいろな刻印(こくいん)が刻(きざ)まれているものもあります。現在(げんざい)のところ、公園全部(こうえんぜんぶ)で約(やく)90種(しゅ)、150個(こ)以上(いじょう)が見(み)つかっています。 このほかにも、堀(ほり)や土橋(どばし)も残(のこ)っていますので、実際(じっさい)に公園(こうえん)を歩(ある)いて確(たし)かめてみてください。
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