富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)
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せんごのおはなし
3.戦後のお話

空襲(くうしゅう)()て、城址(じょうし)変化(へんか)余儀(よぎ)なくされました。空襲後(くうしゅうご)瓦礫(がれき)()めたり、戦災復興都市計画(せんさいふっこうとしけいかく)新道路(しんどうろ)建設(けんせつ)されたことなどから、周囲(しゅうい)(のこ)っていた(ほり)()()てが(すす)んだのです。


まず、空襲(くうしゅう)()けた(かわら)処理(しょり)のため北側(きたがわ)(ほり)()()てられ、(つぎ)道路(どうろ)現在(げんざい)城址大通(じょうしおおどお)り)を新設(しんせつ)するため東側(ひがしがわ)(ほり)()()てられ、また城址(じょうし)南東角(なんとうかど)(けず)られてしまいました。西側(にしがわ)建物(たてもの)()てられるたびに()()てられていきました。そして最後(さいご)昭和(しょうわ)37(ねん)旧消防署新築(きゅうしょうぼうしょしんちく)のために、西南隅(せいなんすみ)(ほり)()()てられたことにより、(ほり)現在(げんざい)のような(かたち)になりました。城址公園(じょうしこうえん)外周(がいしゅう)内側(うちがわ)(おお)きな高低差(こうていさ)()られるのは、そこが(もと)(ほり)であった名残(なごり)です。


昭和30年代の城址空撮写真
昭和(しょうわ)30年代(ねんだい)城址公園(じょうしこうえん)
()もあまり()(しげ)っておらず、消防署(しょうぼうしょ)()てられていません。
城址公園内の段差
城址公園内(じょうしこうえんない)外周(がいしゅう)内側(うちがわ)段差(だんさ)
手前(てまえ)(ほり)だった部分(ぶぶん)で、終戦(しゅうせん)までは(みず)(たた)えられていました。

昭和(しょうわ)46(ねん)には、城址(じょうし)地下(ちか)駐車場(ちゅうしゃじょう)建設(けんせつ)されました。急激(きゅうげき)車社会(くるましゃかい)発達(はったつ)(なか)路上駐車(ろじょうちゅうしゃ)(おお)くなり、市街地(しがいち)において問題(もんだい)となっていたためです。北陸初(ほくりくはつ)地下駐車場(ちかちゅうしゃじょう)でした。「車社会(くるましゃかい)」という(あたら)しい社会(しゃかい)到来(とうらい)による、違法駐車問題解決(いほうちゅうしゃもんだいかいけつ)のため必要不可欠(ひつようふかけつ)のものでした。しかし一方(いっぽう)で、城址(じょうし)地下(ちか)(ねむ)貴重(きちょう)富山城遺構(とやまじょういこう)大規模(だいきぼ)破壊(はかい)(まね)きました。

開業当時の地下駐車場入口:写真
開業当時(かいぎょうとうじ)駐車場入口(ちゅうしゃいりぐち)
富山戦災復興誌(とやませんさいふっこうし)』より

なお、城址(じょうし)昭和(しょうわ)27(ねん)(あら)たに都市計画公園(としけいかくこうえん)富山城址公園(とやまじょうしこうえん)」として開園(かいえん)しました。そして、(どう)29(ねん)には戦災復興事業(せんさいふっこうじぎょう)完了(かんりょう)()に、城址一帯(じょうしいったい)会場(かいじょう)として富山産業大博覧会(とやまさんぎょうだいはくらんかい)開催(かいさい)されました。その(さい)記念(きねん)建築物(けんちくぶつ)として建設(けんせつ)されたのが三重四階(さんじゅうよんかい)天守閣(てんしゅかく)富山城(とやまじょう)」です。会期中(かいきちゅう)は「()殿堂(でんどう)」として各種展覧会(かくしゅてんらんかい)開催(かいさい)され、終了後(しゅうりょうご)郷土博物館(きょうどはくぶつかん)として開館(かいかん)しました。 現在(げんざい)城址公園(じょうしこうえん)市街地(しがいち)貴重(きちょう)なオアシスであり、天守閣(てんしゅかく)市街地(しがいち)のランドマークとなっています。


昭和30年頃の城址公園:写真
昭和(しょうわ)30年頃(ねんごろ)城址公園(じょうしこうえん)
松川左岸(まつかわさがん)から()風景(ふうけい)児童公園(じどうこうえん)()しに「富山城(とやまじょう)」が()えます。
現在の城址公園遠望:写真
現在(げんざい)城址公園(じょうしこうえん)
市役所展望塔(しやくしょてんぼうとう)から()城址公園(じょうしこうえん)。ビルが()(なら)市街地(しがいち)にあって、貴重(きちょう)緑地(りょくち)であることがわかります。

さて、江戸時代(えどじだい)富山城(とやまじょう)(わたし)たちが()らす(まち)をつなぐ(いと)()えましたか。(やく)120年前(ねんまえ)まで存在(そんざい)した富山城(とやまじょう)廃城後(はいじょうご)(なが)時間(じかん)をかけて現在(げんざい)城址公園(じょうしこうえん)(たか)いビルが()(なら)市街地(しがいち)変貌(へんぼう)()げました。城址公園(じょうしこうえん)範囲(はんい)は、富山城(とやまじょう)のほんの一部(いちぶ)にすぎないのです。ここに(いた)るには、(おお)くの人々(ひとびと)様々(さまざま)(おも)いや(かんが)えがありました。今後(こんご)は、「富山市(とやまし)()ミノ(はは)富山城址保存(とやまじょうしほぞん)(かん)スル建議書(けんぎしょ)参照(さんしょう)である富山城址(とやまじょうし)を、大切(たいせつ)未来(みらい)へと(つた)えていかなければならないでしょう。


城址公園(じょうしこうえん)()られる富山城(とやまじょう)遺構(いこう)

城址公園(じょうしこうえん)散策(さんさく)すると、富山城(とやまじょう)遺構(いこう)()ることができます。
郷土博物館(きょうどはくぶつかん)()っている(あた)りの石垣(いしがき)()てみましょう。ここは、本丸(ほんまる)正面(しょうめん)()たる場所(ばしょ)で、枡形門形式(ますがたもんけいしき)鉄門(くろがねもん)があった(ところ)です。(かぎ)手状(てじょう)()()がっているのはその名残(なごり)です。そして、この石垣(いしがき)には普通(ふつう)(いし)よりも(おお)きな(いし)が6()()まれています。これは鏡石(かがみいし)といって、お(しろ)立派(りっぱ)()せるために()まれたものです。また、(いし)(なか)にはいろいろな刻印(こくいん)(きざ)まれているものもあります。現在(げんざい)のところ、公園全部(こうえんぜんぶ)(やく)90(しゅ)、150()以上(いじょう)()つかっています。
このほかにも、(ほり)土橋(どばし)(のこ)っていますので、実際(じっさい)公園(こうえん)(ある)いて(たし)かめてみてください。

城址公園に残る遺構:写真
(ほり)土橋(どばし)石垣(いしがき)
鏡石:写真
鏡石(かがみいし)
鉄門跡(くろがねもんあと)石垣(いしがき)()られる鏡石(かがみいし)実際(じっさい)(よこ)(なら)んで、(おお)きさを実感(じっかん)してみよう!

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