富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)
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とやまけんちょうととやまじょうし
(4)富山県庁と富山城址

明治(めいじ)(ねん)(がつ)廃藩置県(はいはんちけん)(おこな)われ、(あら)たに富山県(とやまけん)設置(せっち)されました。県庁(けんちょう)には旧本丸御殿(きゅうほんまるごてん)()てられました。その()新川県(にいかわけん)となり、一時(いちじ)魚津(うおづ)移転(いてん)した時期(じき)もありますが、それを(のぞ)けば県庁(けんちょう)城址(じょうし)()かれていました。しかし、(どう)(ねん)石川県(いしかわけん)県庁(けんちょう)金沢(かなざわ))に統合(とうごう)されたため、城址(じょうし)にあった県庁(けんちょう)廃止(はいし)されてしまいました。同時(どうじ)県庁跡(けんちょうあと)には石川県(いしかわけん)富山支庁(とやましちょう)()かれましたが、(どう)11(ねん)には廃止(はいし)されました。


富山県庁(旧本丸御殿):古写真
富山県庁(とやまけんちょう)

旧本丸御殿(きゅうほんまるごてん)天保(てんぽう)4(ねん)(1833)に新築(しんちく)されました。廃城(はいじょう)(さい)藩主(はんしゅ)居住空間(きょじゅうくうかん)である奥向(おくむ)きは()(こわ)され、表向(おもてむ)部分(ぶぶん)のみが県庁(けんちょう)として使用(しよう)されました。

富山県(とやまけん)県庁(けんちょう)(うご)
明治(めいじ)4(ねん)7(がつ) 富山県設置(とやまけんせっち)県庁(けんちょう)旧本丸御殿(きゅうほんまるごてん)()てる。
明治(めいじ)4(ねん)11(がつ) 富山県(とやまけん)廃止(はいし)され新川県設置(にいかわけんせっち)県庁(けんちょう)魚津(うおづ)設置(せっち)
明治(めいじ)6(ねん)7(がつ) 県庁(けんちょう)富山城址(とやまじょうし)旧本丸御殿(きゅうほんまるごてん))に(うつ)す。
明治(めいじ)9(ねん)4(がつ) 新川県(にいかわけん)廃止(はいし)され、石川県(いしかわけん)統合(とうごう)県庁(けんちょう)金沢(かなざわ)
明治(めいじ)16(ねん)5(がつ) 石川県(いしかわけん)から富山県独立(とやまけんどくりつ)県庁(けんちょう)城址(じょうし)設置(せっち)

これを()けて、富山(とやま)有志(ゆうし)城址保存(じょうしほぞん)のため、明治(めいじ)15(ねん)公園(こうえん)として整備(せいび)することになりました。人々(ひとびと)(はな)()()え、景観(けいかん)(ととの)えていきました。富山城(とやまじょう)解体(かいたい)(すす)(なか)で、御殿(ごてん)(のこ)旧本丸部分(きゅうほんまるぶぶん)遺構(いこう)だけでも保存(ほぞん)したいという(おも)いが()きあがってきたのでしょう。


しかし、ようやく公園(こうえん)としての(かたち)(ととの)った明治(めいじ)16(ねん)石川県(いしかわけん)から富山県(とやまけん)独立(どくりつ)し、また城址(じょうし)県庁(けんちょう)()かれることになりました。その結果(けっか)公園(こうえん)廃止(はいし)され県庁敷地(けんちょうしきち)となったのです。(どう)32(ねん)初代県庁舎(しょだいけんちょうしゃ)旧本丸御殿(きゅうほんまるごてん))は焼失(しょうしつ)してしまいますが、その()県庁敷地(けんちょうしきち)として利用(りよう)されています。


再建された富山県庁
富山県庁(とやまけんちょう)

明治(めいじ)33(ねん)城址(じょうし)再建(さいけん)された県庁舎(けんちょうしゃ)昭和(しょうわ)(ねん)焼失(しょうしつ)しました。
市街図に見る堀
明治(めいじ)34(ねん)城址(じょうし)
周囲(しゅうい)(ほり)(かこ)まれた県庁敷地(けんちょうしきち)

こんなこともありました その4

明治(めいじ)32(ねん)富山城址(とやまじょうし)関西府県連合共進会(かんさいふけんれんごうきょうしんかい)開催(かいさい)することになり、県庁(けんちょう)山王町(さんのうまち)に、日枝神社(ひえじんじゃ)城址(じょうし)(うつ)されました。共進会終了後(きょうしんかいしゅうりょうご)公園(こうえん)として整備(せいび)する予定(よてい)でした。ところが、(おな)(とし)の8(がつ)開催直前(かいさいちょくぜん)大火(たいか)により県庁(けんちょう)日枝神社(ひえじんじゃ)も、そして旧本丸御殿(きゅうほんまるごてん)焼失(しょうしつ)してしまいました。その結果(けっか)共進会場(きょうしんかいじょう)堀川村(ほりかわむら)現在(げんざい)富山高校敷地(とやまこうこうしきち))に(うつ)され、県庁(けんちょう)日枝神社(ひえじんじゃ)(もと)場所(ばしょ)(もど)されました。城址(じょうし)県庁敷地(けんちょうしきち)(もど)ったのです。



なお、旧西之丸(きゅうにしのまる)には明治(めいじ)32(ねん)まで監獄署(かんごくしょ)現在(げんざい)刑務所(けいむしょ))が()かれていました。(どう)16(ねん)西側(にしがわ)(ほり)土橋(どばし)()けられたのは、監獄署(かんごくしょ)出口(でぐち)とするためです。また、本丸(ほんまる)西之丸(にしのまる)(あいだ)(ほり)は、(どう)25年頃(ねんごろ)までには()()てられたようです。その()旧西之丸(きゅうにしのまる)旧本丸(きゅうほんまる)()わせて管理(かんり)され、監獄署移転後(かんごくしょいてんご)には県会議事堂(けんかいぎじどう)()てられました。


市街図に見る監獄署
西之丸跡(にしのまるあと)監獄署(かんごくしょ)

明治(めいじ)25〜26年頃(ねんごろ)城址(じょうし)。この(ころ)までには、旧本丸(きゅうほんまる)西之丸(にしのまる)(あいだ)(ほり)()()てられたようです。
富山県会議事堂:古写真
富山県会議事堂(とやまけんかいぎじどう)
明治(めいじ)42(ねん)皇太子(こうたいし)(のち)大正天皇(たいしょうてんのう)行啓記念事業(ぎょうけいきねんじぎょう)として建設(けんせつ)されました。

戦前(せんぜん)県庁(けんちょう)は、用事(ようじ)のない(ひと)気軽(きがる)近付(ちかづ)けるところではありませんでした。周囲(しゅうい)(ほり)(かこ)まれていることは、それを象徴(しょうちょう)しているようにも()えます。


こうして、昭和初期(しょうわしょき)まで県庁敷地(けんちょうしきち)として管理(かんり)されたおかげで、周囲(しゅうい)()()てられることもなく、旧本丸(きゅうほんまる)西之丸部分(にしのまるぶぶん)は、富山城(とやまじょう)面影(おもかげ)(のこ)唯一(ゆいいつ)空間(くうかん)として(のこ)されることになったのです。


明治(めいじ)という(あたら)しい時代(じだい)到来(とうらい)により、旧体制(きゅうたいせい)(かか)わるものは、無用(むよう)のものとして破壊(はかい)されていく(なが)れにありました。「城郭(じょうかく)」もその1つです。これまで()てきたように、富山城(とやまじょう)もその(おお)くが解体(かいたい)破壊(はかい)−され、遺構(いこう)(うしな)われていきました。一方(いっぽう)で、解体(かいたい)(おお)きな“()()”の出現(しゅつげん)意味(いみ)します。ここに(あら)たな建物(たてもの)道路(どうろ)(つく)られ、近代的(きんだいてき)(まち)づくりが次々(つぎつぎ)(すす)められていったのです。富山城址(とやまじょうし)は、新時代(しんじだい)到来(とうらい)(もっと)もよく(かん)じることができる場所(ばしょ)となりました。


大正時代の城址空撮写真
大正時代中期(たいしょうじだいちゅうき)城址付近(じょうしふきん)航空写真(こうくうしゃしん)です。城址(じょうし)東側上空(ひがしがわじょうくう)から撮影(さつえい)しています。県庁敷地(けんちょうしきち)(ほり)(かこ)まれ、そのほかの地域(ちいき)には(おお)くの家並(やな)みが()えます。中央(ちゅうおう)県庁(けんちょう)右側(みぎがわ)神通川(じんづうがわ)です。

それでは(つぎ)に、唯一(ゆいいつ)(のこ)された旧本丸(きゅうほんまる)西之丸(にしのまる)のその()()てみることにしましょう。解体(かいたい)(あたら)しい(まち)づくりにつながっていた時代(じだい)から、(のこ)された遺構(いこう)史蹟(しせき)として保存(ほぞん)しようとする(うご)きが()てきます。


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