富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)
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ひがしのでまる・ちとせごてんのかいたい
(3)東出丸・千歳御殿の解体

東出丸(ひがしのでまる)は、三之丸(さんのまる)同様(どうよう)(はら)()げられていったようです。

千歳御殿(ちとせごてん)には隠居(いんきょ)した藩主(はんしゅ)()んでいました。しかし、明治(めいじ)(ねん)藩主一家(はんしゅいっか)東京(とうきょう)(うつ)ると、翌年(よくとし)には(けん)命令(めいれい)により各地(かくち)()らばっていた芸娼妓(げいしょうぎ)貸座敷(かしざしき)遊郭(ゆうかく))がここに(あつ)められることになり、千歳御殿(ちとせごてん)遺構(いこう)はすべて()(こわ)されてしまいました。(あら)たにできた歓楽街(かんらくがい)桜木町(さくらぎちょう)名付(なづ)けられました。


千歳御殿跡:古写真
千歳御殿跡(ちとせごてんあと)
桜木町の図
明治(めいじ)20(ねん)富山市街図(とやましがいず)(えが)かれた桜木町(さくらぎちょう)様子(ようす)

こんなこともありました その3

千歳御殿(ちとせごてん)敷地(しきち)には(さくら)(おお)()えられていたことから、それにちなんで「桜木町(さくらぎちょう)」と名付(なづ)けられたといわれます。


このように、三之丸(さんのまる)二之丸(にのまる)東出丸(ひがしのでまる)千歳御殿(ちとせごてん)次々(つぎつぎ)解体(かいたい)(すす)み、市街地(しがいち)一体化(いったいか)(すす)んでいきました。こうした(なか)で、本丸(ほんまる)西之丸部分(にしのまるぶぶん)(のこ)された理由(りゆう)富山県庁(とやまけんちょう)との関係(かんけい)とは(なん)なのでしょうか。それでは()てみることにしましょう。


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