東出丸(ひがしのでまる)は、三之丸(さんのまる)と同様(どうよう)に払(はら)い下(さ)げられていったようです。
千歳御殿(ちとせごてん)には隠居(いんきょ)した藩主(はんしゅ)が住(す)んでいました。しかし、明治(めいじ)4年(ねん)に藩主一家(はんしゅいっか)が東京(とうきょう)に移(うつ)ると、翌年(よくとし)には県(けん)の命令(めいれい)により各地(かくち)に散(ち)らばっていた芸娼妓(げいしょうぎ)・貸座敷(かしざしき)(遊郭(ゆうかく))がここに集(あつ)められることになり、千歳御殿(ちとせごてん)の遺構(いこう)はすべて取(と)り壊(こわ)されてしまいました。新(あら)たにできた歓楽街(かんらくがい)は桜木町(さくらぎちょう)と名付(なづ)けられました。
千歳御殿(ちとせごてん)の敷地(しきち)には桜(さくら)が多(おお)く植(う)えられていたことから、それにちなんで「桜木町(さくらぎちょう)」と名付(なづ)けられたといわれます。
このように、三之丸(さんのまる)、二之丸(にのまる)、東出丸(ひがしのでまる)、千歳御殿(ちとせごてん)は次々(つぎつぎ)と解体(かいたい)が進(すす)み、市街地(しがいち)と一体化(いったいか)が進(すす)んでいきました。こうした中(なか)で、本丸(ほんまる)と西之丸部分(にしのまるぶぶん)が残(のこ)された理由(りゆう)、富山県庁(とやまけんちょう)との関係(かんけい)とは何(なん)なのでしょうか。それでは見(み)てみることにしましょう。
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