次(つぎ)に二之丸(にのまる)を見(み)てみましょう。二階櫓門(にかいやぐらもん)は、明治(めいじ)8年(ねん)に俛焉(べんえん)小学校(しょうがっこう)(後(のち)の総曲輪(そうがわ)小学校(しょうがっこう))の校舎(こうしゃ)として使用(しよう)されました。しかし、同(どう)16年(ねん)に同校(どうこう)が移転(いてん)すると取(と)り壊(こわ)され、これと前後(ぜんご)して石垣(いしがき)も撤去(てっきょ)されました。また、時鐘台(じしょうだい)は明治時代(めいじじだい)になってから、西町辻(にしちょうつじ)(現在(げんざい)の西町(にしちょう)スクランブル交差点(こうさてん)付近(ふきん))に移(うつ)されましたが、同(どう)16年(ねん)には旧本丸(きゅうほんまる)石垣上(いしがきじょう)に再度(さいど)移(うつ)されました。
明治(めいじ)20年(ねん)には西側(にしがわ)の堀(ほり)を埋(う)め立(た)てて、県会議事堂(けんかいぎじどう)が新築(しんちく)されました。東側(ひがしがわ)の堀(ほり)については、同(どう)18年(ねん)に堀端(ほりばた)に新築(しんちく)された富山県中学校(とやまけんちゅうがっこう)の写真(しゃしん)に、その一部(いちぶ)を確認(かくにん)することができます。しかし、これも同(どう)30年代(ねんだい)初(はじ)め頃(ごろ)には埋(う)め立(た)てられたようです。
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