富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)
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にのまるのかいたい
(2)二之丸の解体

(つぎ)二之丸(にのまる)()てみましょう。二階櫓門(にかいやぐらもん)は、明治(めいじ)(ねん)俛焉(べんえん)小学校(しょうがっこう)(のち)総曲輪(そうがわ)小学校(しょうがっこう))の校舎(こうしゃ)として使用(しよう)されました。しかし、(どう)16(ねん)同校(どうこう)移転(いてん)すると()(こわ)され、これと前後(ぜんご)して石垣(いしがき)撤去(てっきょ)されました。また、時鐘台(じしょうだい)明治時代(めいじじだい)になってから、西町辻(にしちょうつじ)現在(げんざい)西町(にしちょう)スクランブル交差点(こうさてん)付近(ふきん))に(うつ)されましたが、(どう)16(ねん)には旧本丸(きゅうほんまる)石垣上(いしがきじょう)再度(さいど)(うつ)されました。


二階櫓門:古写真
二階櫓門(にかいやぐらもん)
(もん)の2階部分(かいぶぶん)(ひろ)さは、意外(いがい)(ひろ)くて、全体(ぜんたい)で32(つぼ)(たたみ)64枚分(まいぶん))ありました。この写真(しゃしん)は、現在(げんざい)(まる)(うち)交差点(こうさてん)付近(ふきん)から、国際会議場(こくさいかいぎじょう)方向(ほうこう)()風景(ふうけい)です。
時鐘台:古写真
時鐘台(じしょうだい)
明治(めいじ)32(ねん)大火(たいか)焼失(しょうしつ)するまで、人々(ひとびと)(とき)()らせていました。現在(げんざい)(おな)場所(ばしょ)天守閣(てんしゅかく)()っています。

明治(めいじ)20(ねん)には西側(にしがわ)(ほり)()()てて、県会議事堂(けんかいぎじどう)新築(しんちく)されました。東側(ひがしがわ)(ほり)については、(どう)18(ねん)堀端(ほりばた)新築(しんちく)された富山県中学校(とやまけんちゅうがっこう)写真(しゃしん)に、その一部(いちぶ)確認(かくにん)することができます。しかし、これも(どう)30年代(ねんだい)(はじ)(ごろ)には()()てられたようです。


富山県中学校:古写真
富山県中学校(とやまけんちゅうがっこう)

校舎前(こうしゃまえ)に、(ほり)一部(いちぶ)(うつ)っています。校舎(こうしゃ)は、現在(げんざい)市営総曲輪駐車場(しえいそうがわちゅうしゃじょう)付近(ふきん)に、北向(きたむ)きで()っていました。
市街図に見る中学校と議事堂の位置と堀
明治(めいじ)20(ねん)富山市街図(とやましがいず)部分(ぶぶん))です。まだ、二之丸(にのまる)(ほり)一部(いちぶ)(のこ)っています。

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