富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)
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さんのまるのかいたい
(1)三之丸の解体

まずは三之丸部分(さんのまるぶぶん)です。(はら)()げが(すす)むにつれて、必要(ひつよう)のなくなった外堀(そとぼり)徐々(じょじょ)()()てられていき、その(あと)には(あら)たに建物(たてもの)()てられていきました。この(うち)学校(がっこう)寺院(じいん)()てる(さい)には、砂持奉仕(すなもちほうし)(おこな)われました。有志(ゆうし)神通川等(じんづうがわなど)から(いし)(すな)(はこ)び、(ほり)()()てる作業(さぎょう)奉仕(ほうし)(おこな)ったのです。(とく)に、本願寺(ほんがんじ)東西(とうざい)両別院(りょうべついん)砂持奉仕(すなもちほうし)大規模(だいきぼ)なものでした。富山(とやま)真宗門徒(しんしゅうもんと)(おお)土地柄(とちがら)ですから、(おお)くの門徒衆(もんとしゅう)熱心(ねっしん)奉仕(ほうし)(おこな)いました。

明治18年に残っていた堀の図
(おな)じく明治(めいじ)18(ねん)市街図(しがいず)部分(ぶぶん))です。青色(あおいろ)部分(ぶぶん)(ほり)(のこ)っている部分(ぶぶん)()()てが大分(だいぶん)(すす)んでいることが(わか)ります。

それでは、啓迪(けいてき)小学校(しょうがっこう)(のち)八人町(はちにんまち)小学校(しょうがっこう)新築(しんちく)(さい)砂持(すなもち)様子(ようす)を、当時(とうじ)新聞(しんぶん)()てみましょう。


其模様(そのもよう)(いず)れも大八車(だいはちぐるま)(すな)()()せ、(くるま)左右前後(さゆうぜんご)にハ砂持等(すなもちなど)文字(もじ)大書(たいしょ)したる数旒(すりゅう)紅白旗(こうはくばた)(ひる)がへし、車轅(ながえ)両端(りょうたん)(なが)(なわ)結付(ゆいつ)け、七八歳(しちはっさい)小児輩(こどもら)にハこゝ(ここ)一番(いちばん)(はれ)緋縮緬(ひちりめん)天鵞絨(ビロード)襦袢股引(じゅばんももひき)()せ、華笠(はながさ)(かむ)らせなど、(もっ)と(も)美々敷(びびしき)扮装(いでたち)にて(なわ)取付(とりつ)前駆(ぜんく)仁和賀連(にわかれん)(はや)しを拍子(ひょうし)ヤンヤヽヽヽ(やんややんや)市街(しがい)打廻(うちめぐ)()きつ(もど)りつ中々(なかなか)(にぎわ)ひなり「中越新聞(ちゅうえつしんぶん)」(明治(めいじ)20.6.13)

ルビは原文(げんぶん)(もと)()しています。

(すな)()んだ大八車(だいはちぐるま)左右前後(さゆうぜんご)には「砂持(すなもち)」などと()かれた紅白(こうはく)(はた)(ひるがえ)っています。車輪(しゃりん)両端(りょうはし)(むす)()けられている(なが)(なわ)には、7〜8(とし)子供(こども)たちが、一番(いちばん)()()()てつながって(ある)いていて、囃子(はやし)拍子(ひょうし)()わせて(にぎ)やかに市街(しがい)()ったり()たりしています。

啓迪小学校の位置を示した市街図
明治(めいじ)25(ねん)市街図(しがいず)部分(ぶぶん))です。(うえ)()見比(みくら)べてください。

みんな(あか)るく、(にぎ)やかに作業(さぎょう)(おこな)っていた様子(ようす)がよく()かります。人々(ひとびと)にとって(しろ)解体(かいたい)は、“破壊(はかい)”ではなく“(あら)たな(まち)づくり”だったのです。


旧城域(きゅうじょういき)区切(くぎ)るように、(あたら)しい道路(どうろ)(つく)られていきました。その(うち)(もっと)(おお)きなものが(さき)ほど「一本(いっぽん)(おお)きな道路(どうろ)」として()てきた大手通(おおてどお)り(現在(げんざい)大手(おおて)モール)です。富山城(とやまじょう)本丸(ほんまる)ニ之丸(にのまる)をつなぐ土橋(どばし)三之丸(さんのまる)屋敷(やしき)(あいだ)(みち)、そして大手門跡(おおてもんあと)(むす)んで(つく)られました。


この(とお)りは、県内(けんない)(もっと)道幅(みちはば)(ひろ)く、昭和初期(しょうわしょき)まで市役所(しやくしょ)学校(がっこう)病院(びょうき)図書館(としょかん)新聞社(しんぶんしゃ)郵便局(ゆうびんきょく)、そして商店(しょうてん)などが()(なら)ぶ、富山(とやま)のメインストリートとして(にぎ)わっていきました。大正(たいしょう)(ねん)には市内軌道(しないきどう)市電(しでん))も開通(かいつう)しています。


明治時代後期の大手通り:古写真
明治時代後期(めいじじだいこうき)大手通(おおてどお)
現在(げんざい)大手(おおて)モールです。総曲輪通(そうがわどお)りと(まじ)わる(あた)りから、城址公園(じょうしこうえん)方向(ほうこう)()風景(ふうけい)です。
旧富山城払下図
旧富山城払下図(きゅうとやまじょうはらいさげず)
赤色(あかいろ)(あたら)しく敷設(ふせつ)された道路(どうろ)地図(ちず)真中(まんなか)(たて)()かれているのが大手通(おおてどお)りです。

こんなこともありました その1

大手通(おおてどお)りについて明治初期(めいじしょき)地図(ちず)()ると、現在(げんざい)市民(しみん)プラザの(あた)りで(かぎ)()(じょう)()がっています。これは、大手門(おおてもん)名残(なごり)です。大手門(おおてもん)付近(ふきん)は、(てき)侵入(しんにゅう)しようとした(さい)直進(ちょくしん)するのを(ふせ)ぐため枡形(ますがた)になっていたのです。なお、この部分(ぶぶん)は、明治(めいじ)32(ねん)大火(たいか)(あと)延焼防止(えんしょうぼうし)消防(しょうぼう)ポンプの進行(しんこう)のため、一部(いちぶ)拡幅(かくふく)して直線道路(ちょくせんどうろ)改修(かいしゅう)されました。


明治25年市街図の大手門跡 明治41年市街図の大手門跡
明治(めいじ)25(ねん)
拡幅前(かくふくまえ)(かぎ)()(じょう)()がっています。
明治(めいじ)41(ねん)
拡幅後(かくふくご)直線道路(ちょくせんどうろ)になっています。

現在(げんざい)総曲輪通(そうがわどお)商店街(しょうてんがい)も、外堀(そとぼり)()()てて誕生(たんじょう)した繁華街(はんかがい)です。泉鏡花(いずみきょうか)(さく)黒百合(くろゆり)』(明治(めいじ)32年刊(ねんかん))の(なか)に、(つぎ)のような文章(ぶんしょう)があります。

場末(ばすえ)ではあるけれども、富山(とやま)(にぎ)かなのは総曲輪(そうがわ)という、大手先(おおてさき)(しろ)外壕(そとぼり)(のこ)った水溜(みずたまり)があって、片側町(かたがわまち)小商賈(こあきゅうど)(のき)(なら)べ、(ほり)沿()っては昼夜交代(ちゅうやこうたい)露店(ほしみせ)()す。

つまり、明治時代中(めいじじだいなか)ごろまでは外堀(そとぼり)一部(いちぶ)が“水溜(みずたま)り”として(のこ)っていて、現在(げんざい)総曲輪通(そうがわどお)りを(はさ)んで南側(みなみがわ)には商店(しょうてん)が、水溜(みずたま)りのある北側(きたがわ)には、道路(どうろ)沿()って昼夜(ちゅうや)露天商(ろてんしょう)(なら)んでいたのです。(のち)にこの水溜(みずたま)りも()()てられ、現在(げんざい)のような道路(どうろ)両側(りょうがわ)商店(しょうてん)()(なら)商店街(しょうてんがい)となりました。


昭和初期の総曲輪通り:古写真
昭和初期(しょうわしょき)総曲輪通(そうがわどお)

明治初期(めいじしょき)道路(どうろ)()かって左側(ひだりがわ)には、まだ(ほり)一部(いちぶ)(のこ)っていました。
現在の総曲輪通りを示した富山城下図
天保(てんぽう)(ねん)(1831)の富山城下図(とやまじょうかず)富山城部分(とやまじょうぶぶん)です。

こんなこともありました その2

廃藩置県(はいはんちけん)直前(ちょくぜん)明治(めいじ)(ねん)には(はん)開拓掛(かいたくがかり)が、金沢(かなざわ)から蓮根(れんこん)()()()せて外堀(そとぼり)()えたという記録(きろく)があります。(おそ)らく食用(しょくよう)にするためだったのでしょう。

昭和26年の堀の蓮根
戦前(せんぜん)から終戦後(しゅうせんご)にかけても、(ほり)蓮根(れんこん)繁殖(はんしょく)していました。この写真(しゃしん)昭和(しょうわ)26(ねん)(ほり)様子(ようす)です。

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