富山城址(とやまじょうし)変遷(へんせん)
4/12ページ


めいじじだいのおはなし
1.明治時代のお話

明治(めいじ)という(あたら)しい時代(じだい)到来(とうらい)とともに、全国各地(ぜんこくかくち)にあった城郭(じょうかく)(おお)きく変化(へんか)していきました。富山城(とやまじょう)同様(どうよう)で、明治(めいじ)(ねん)には、三之丸内(さんのまるない)現在(げんざい)本願寺東別院(ほんがんじひがしべついん)西別院(にしべついん)(あいだ)道路(どうろ)から、芝園小学校(しばぞのしょうがっこう)旧総曲輪小学校(きゅうそうがわしょうがっこう))の西側(にしがわ)道路辺(どうろあた)りまでが、(じゅん)開墾(かいこん)され練兵場(れんぺいじょう)となりました。


その様子(ようす)は『富山高岡沿革志(とやまたかおかえんかくし)明治(めいじ)28(ねん)によると「渺漠(びょうばく)タル曠原(こうげん)ニシテ(さら)()(さえ)キル(もの)ナク(なか)一条(いちじょう)大道(だいどう)(つう)スルノミ」でした。つまり、建物(たてもの)(なに)もない広野(こうや)に、一本(いっぽん)(おお)きな道路(どうろ)だけが(とお)っていたということです。


総曲輪と桜木町の町域図

明治(めいじ)18(ねん)富山市街図(とやましがいず)部分(ぶぶん))です。ピンク(いろ)部分(ぶぶん)が「総曲輪(そうがわ)惣曲輪(そうがわ))」、オレンジ(いろ)部分(ぶぶん)が「桜木町(さくらぎちょう)」となった(ところ)です。

そして明治(めいじ)(ねん)明治政府(めいじせいふ)により廃城令(はいじょうれい)()されました。これによって富山城(とやまじょう)正式(せいしき)廃城(はいじょう)となり、以後本格的(いごほんかくてき)解体(かいたい)(すす)んでいきました。千歳御殿跡(ちとせごてんあと)は「桜木町(さくらぎちょう)」、それ以外(いがい)部分(ぶぶん)は「総曲輪(そうがわ)惣曲輪(そうがわ))」という(あら)たな地名(ちめい)()けられ、(じゅん)(はら)()げられていきました。


明治(めいじ)廃城後(はいじょうご)解体(かいたい)されていったことが6(ぶん)の1になった理由(りゆう)のようです。それでは、解体(かいたい)(すす)んでいった部分(ぶぶん)から(じゅん)に、その経緯(けいい)()てみることにしましょう。


目次(もくじ)(もど) | (まえ)のページへ | (つぎ)のページへ

Copyright(C) 2005 富山市郷土博物館 Allrights reserved