明治(めいじ)という新(あたら)しい時代(じだい)の到来(とうらい)とともに、全国各地(ぜんこくかくち)にあった城郭(じょうかく)は大(おお)きく変化(へんか)していきました。富山城(とやまじょう)も同様(どうよう)で、明治(めいじ)3年(ねん)には、三之丸内(さんのまるない)、現在(げんざい)の本願寺東別院(ほんがんじひがしべついん)と西別院(にしべついん)の間(あいだ)の道路(どうろ)から、芝園小学校(しばぞのしょうがっこう)(旧総曲輪小学校(きゅうそうがわしょうがっこう))の西側(にしがわ)の道路辺(どうろあた)りまでが、順(じゅん)に開墾(かいこん)され練兵場(れんぺいじょう)となりました。
その様子(ようす)は『富山高岡沿革志(とやまたかおかえんかくし)』(明治(めいじ)28年(ねん))によると「渺漠(びょうばく)タル曠原(こうげん)ニシテ更(さら)ニ目(め)ヲ遮(さえ)キル物(もの)ナク中(なか)ニ一条(いちじょう)ノ大道(だいどう)ヲ通(つう)スルノミ」でした。つまり、建物(たてもの)が何(なに)もない広野(こうや)に、一本(いっぽん)の大(おお)きな道路(どうろ)だけが通(とお)っていたということです。
そして明治(めいじ)6年(ねん)、明治政府(めいじせいふ)により廃城令(はいじょうれい)が出(だ)されました。これによって富山城(とやまじょう)は正式(せいしき)に廃城(はいじょう)となり、以後本格的(いごほんかくてき)に解体(かいたい)が進(すす)んでいきました。千歳御殿跡(ちとせごてんあと)は「桜木町(さくらぎちょう)」、それ以外(いがい)の部分(ぶぶん)は「総曲輪(そうがわ)(惣曲輪(そうがわ))」という新(あら)たな地名(ちめい)が付(つ)けられ、順(じゅん)に払(はら)い下(さ)げられていきました。
明治(めいじ)の廃城後(はいじょうご)、解体(かいたい)されていったことが6分(ぶん)の1になった理由(りゆう)のようです。それでは、解体(かいたい)が進(すす)んでいった部分(ぶぶん)から順(じゅん)に、その経緯(けいい)を見(み)てみることにしましょう。
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