A |
前田利長は、44歳で早く隠居しました。これは、当時の将軍徳川家康との不仲により、反乱の嫌疑をかけられたため、早々に引退して敵意が無いことを示す措置だったと理解されています。 |
|
一方、加賀藩主を継いだ前田利常は、まだ12才で、藩をコントロールする能力はありませんでした。後見人をおきますが、藩の実質的な権力は、利長が持っていたことは、隠居した後も家臣の人事を握っていた記録が残っていることからも証明されます。 |
|
したがって、利長は、富山に隠居したあとも、実質的に加賀藩を支配する意図があったのであって、隠居は徳川幕府に対する表向きの行為にすぎなかったといえます。 |
|
このことは、利長が築いた富山城は、Q.3でも述べたように、当時の支配者秀吉の聚楽第を手本としたこと、また瓦に家紋をつけることを加賀藩ではじめて富山城で行ったことで、「前田氏」を初めて強調したことなどから、実質的「支配者」としての立場を表明したとみられます。鏡石を置いたことは、このような支配者としての立場を示す一つの行為と理解できます。
|