A |
約40年間の長い間、富山藩の城は存在しませんでした。 |
|
当初、富山藩初代藩主前田利次は、呉羽山北側の富山市百塚に富山城を建設しようと考えていました。天皇から勲位を与えられたとき、利次は「百塚侍従」と呼ばれ、百塚に城・城下町を建設することはほぼ決定していたようです。
しかし記録によると、百塚を測量した結果、城地としては不適格と判断され、その計画は中止となりました。地形は金沢城と似ていて、城地としていい場所です。どうして不適と判断されたのかわかりませんが、それは表向きの理由だったのかもしれません。 |
|
富山藩の成立した1639年から、当時加賀藩の領地であった富山城を正式に富山藩の城として整備する1660年までの21年間も、富山藩は「城なし」で過ごしました。記録では、焼けた利長の富山城を借りて住み、家臣は城下町に分散して住んだとしていますが、百塚に一部の家臣が住んでいたと伝えるものもあります。 |
|
百塚には、家臣の住んだ痕跡ははっきりと残っていません。実際にどこの範囲に城を計画したかは不明ですが、富山市長岡地区の市営墓地の一角には、富山藩主の墓地(長岡御廟)が存在しており、そこが城の予定地の一部であったと推定されます。
|
|

明治44年の地形図 百塚村の位置 |
|