四方(よかた)背戸割(せとわり)遺跡
  旧神通川河口右岸に営まれた弥生時代の集落
(富山地域)
四方背戸割遺跡は、富山市北西の海岸部に位置する、弥生時代中期〜後期(紀元前2世紀から紀元2世紀頃、約2200から1900年前)の集落跡です。
神通川右岸の微高地上に立地し、標高は2.5〜3mを測ります。
平成10(1998)年、平成17(2008)年、平成25(2013)年、令和4(2022)年に発掘調査を実施しました。
 
弥生時代中期〜後期の集落
発掘調査の結果、弥生時代中期の平地式建物や溝、土坑、ピット群などを検出しました。遺跡の北東部は谷地形となっており、集落の縁辺部と考えられます。
自然堤防上の堆積土の中からは、弥生土器がつぶれた状態でいくつも見つかっており、同様の事例が確認された打出遺跡と同じく神通古古川の氾濫した際にそのまま埋もれたものと考えられます。(富山市の考古学NOW「川と遺跡」(縄文時代から江戸時代) (2)古古川形成以後B弥生時代後期前半
 
平地式建物   弥生時代中期の土器
 
他地域との交流
四方背戸割遺跡では、他地域との交流を物語る弥生時代中期中葉の栗林(くりばやし)式土器(北信濃)・貝田町(かいだちょう)式土器(東海)、後期前葉の天王山(てんのうやま)式土器(東北)が出土しています。
弥生時代中期に山陰地方から北陸地方へ玉造りの技術が伝播し、緑色(りょくしょく)凝灰岩(ぎょうかいがん)製の管玉(くだだま)などが造られるようになりました。他地域の人々が、その玉を求めて、交換財とともに土器を持ち込んだと考えられています。この頃は、放生津潟(ほうじょうづがた)の西に所在する作道遺跡、高島A遺跡(ともに射水市)では栗林式土器の搬入品が多く出土していることから他地域との交流が盛んであったと考えられ、潟の東に所在する四方背戸割遺跡でも同様に交流があったと考えられます。
後期になると、富山県内の各所で天王山式の出土が確認され、鉄・玉などを求めた東北地方からの交易集団が定住していたと考えられています。天王山式出土遺跡は、@天王山式が大半を占める遺跡、A在地土器+天王山式が出土する遺跡に二分され、在地集団と@一定距離を置く集団とA在地集団に溶け込もうとする集団がいたと考えられます。四方背戸割遺跡には、タイプAの集団が定住していたと推測されます。
(近藤・堀内)
 
栗林式土器、貝田町式土器、天王山式土器
 
 
関連項目
  打出遺跡(弥生) 旧神通川河口左岸に営まれた集落
  四方荒屋遺跡・四方背戸割遺跡(中世〜近世) 旧神通川河口右岸に営まれた中世〜近世の集落と耕作地
 
 
関連書籍(表紙をクリックすると全国遺跡報告総覧のホームページが開きます)
     
  富山市教育委員会 1999
『富山市四方背戸割遺跡
発掘調査報告書』
  富山市教育委員会 2006
『富山市四方背戸割遺跡
発掘調査報告書』
  富山市教育委員会 2014
『富山市四方荒屋遺跡
発掘調査報告書』
     
  富山市教育委員会 2023
『富山市四方背戸割遺跡・
四方荒屋遺跡
発掘調査報告書』