四方(よかた)背戸割(せとわり)遺跡、四方(よかた)荒屋(あらや)遺跡
  旧神通川河口右岸に営まれた中世〜近世の集落と耕作地
(富山地域)
両遺跡は、富山市四方荒屋地内の神通川下流左岸の平野部に隣接して立地する遺跡です。もともとは一つの遺跡でしたが、発掘調査で下層に弥生〜古墳時代の集落跡、上層に中世〜近世の集落跡があることを確認しました。
このことから遺跡範囲を見直し、上層と下層の2層がある南側は「四方背戸割遺跡」(四方背戸割遺跡(弥生) 旧神通川河口に営まれた弥生時代の集落)、下層遺構がない北側を「四方荒屋遺跡」としました。
 
中世の集落跡
四方背戸割遺跡と北側に隣接する四方荒屋遺跡にかけて、中世〜近世の屋敷跡、畠跡が広がっています。
 
中世の屋敷跡
中世の土地利用
中世の建物跡は、16m×22mの短冊型(長方形)の区画溝に囲まれた屋敷地に掘立柱建物3棟が「コの字」に配置されて建っていました。これらの建物は出土遺物から14世紀以降に建てられたと考えられます。3棟のうち1棟は、推定6間(または5間半)×4間で、3間×2間の小型の建物が主流であった当時としては大きな建物と言えます。
 
道路跡
令和4(2022)年の調査で南北方向と東西方向の道路跡が見つかりました。
東西方向の道路跡(路面幅3.8〜4.4m)は、中世の屋敷跡の南約600mに位置し、両側の側溝ともに少なくとも3回は掘り直されています。この道路跡は、西にある打出遺跡の中世集落(打出遺跡(中世) 旧神通川河口に営まれた集落)に向かって延びています。
南北方向の道路跡(路面幅31.6m)は東西道路に直交します。
 
中〜近世の畠跡
中世の屋敷跡の南側には多数の畠の畝が所在しています。畝には南北方向(A群)と東西方向(B群)があり、B群が古いです。
B群は、屋敷跡と東西方向の道路跡の間で見られ、規模は約4町歩(200m四方)です。出土遺物から屋敷跡と同時期の畠跡と考えられます。
A群は、東西方向の道路跡の南側でも確認でき、規模は約6町歩(南北300m×東西200m)に拡大しています。出土遺物から江戸時代の畠跡と考えられます。
江戸時代前期に起きた洪水により神通川河口が東(現在の位置)へ移動したことで遺跡のそばを流れていた神通川の流路が変わり水の取水方法が変わったため、畠の畝方向もB群からA群へ変化した可能性があります。
 
地震の痕跡
両遺跡からは、大規模な地震による液状化現象の痕跡である噴砂が複数確認されています。その他に地割れ跡と考えられる不整形な溝も見つかっています。
噴砂は遺構との新旧関係から863年の貞観地震、1586年の天正地震、1858年の飛越地震のいずれかの痕跡と推測されます。A群の畠跡を突き抜けて確認された噴砂は、1858年の飛越地震に伴うものと考えられます。
(近藤・堀内)
 
 
関連項目
  四方背戸割遺跡(弥生時代) 旧神通川河口右岸に営まれた集落
 
 
関連書籍(表紙をクリックすると全国遺跡報告総覧のホームページが開きます)
     
  富山市教育委員会 1999
『富山市四方背戸割遺跡
発掘調査報告書』
  富山市教育委員会 2006
『富山市四方背戸割遺跡
発掘調査報告書』
  富山市教育委員会 2014
『富山市四方荒屋遺跡
発掘調査報告書』
     
  富山市教育委員会 2023
『富山市四方背戸割遺跡・
四方荒屋遺跡
発掘調査報告書』