豊田大塚とよたおおつか中吉原なかよしわら遺跡

新川郡家ぐうけ祭祀さいし
(富山地域)
豊田大塚・中吉原遺跡は、富山市街の北約4.5kmの豊田本町地内に位置します。神通川右岸の微高地上に立地し、標高は7mから8mを測ります。弥生時代終末期から鎌倉時代の集落遺跡、縄文時代晩期から平安時代の祭祀遺跡です。
平成7(1995)年、平成24(2012)年に店舗等建築に伴って発掘調査を実施しました。
 
 
平安時代の溝・道路
遺跡の北部中央(平成7年度調査区)で、縄文時代から古墳時代までの沼地が埋まった後に、沼地の肩から10m入ったところで平安時代(約1050年前)のみぞを検出しました。
この溝からは、人面墨書土器、人形ひとがた、「×」と書かれた墨書土器など祭祀に使われた道具のほか、加工された棒などの木製品が出土しました。これらの祭祀用の道具類の出土は、富山市内で初めてのものです。
遺跡の東部(平成24年度調査区)では、東西方向に並行して走る2本の溝を検出しました。この溝は、直線道路の側溝で、路面幅は5.5m、側溝幅は1.67mあります。この道路は、古代新川群の「志麻しま郷」と「丈部はせつかべ郷」を結ぶ道路であったと考えられます。
道路跡(平成24年度)
道路跡(平成24年度)
 
 
人面墨書土器
人面墨書土器は、土器に人の顔を墨で描き、何かのまじないを行ってから川などに流す祭祀に使われた土器です。描かれた顔は疫病神やくびょうがみや鬼神の顔だとされます。当時は天然痘てんねんとうなど疫病が流行し、それは疫病神や鬼神がもたらす病気とされており、人面墨書土器はそうした迷惑な神々を(川などに流して)追い払う儀式に使われたと考えられています。このような儀式は、奈良時代の中頃から平安時代にかけて、平城京・長岡京・平安京などの都や地方官衙かんがなど政治の中心地で盛んに行なわれました。
出土した人面墨書土器は3点あり、平安時代のものです。このうち完形のものは2点あり、1点は、口径13.2cm、高さ13cmの土師器の甕に2つの顔が描かれています。これをA面・B面と区別すると、A面の顔は眉・目ともにつりあがっており、目頭を表現したような縦線が2本、鼻の下には人中を表した平行線が2本つけられ、また、口髭・顎髭・頬髭をたくわえています。かなり精悍せいかんな表情に見えます。
一方B面の顔は、眉は丸く表現され、目はより切れ長となっています。額には頭髪を表す波線が描かれています。顎鬚の下には、顎を表現した二重線が見えています。その他の描き方はA面とあまり変わりませんが、全体的にはやや含みのある顔といえます。
この土器の人面は、他府県で見られるような、目を一本線で表現するなどの省略をせず、非常に丁寧に描かれており、また流暢りゅうちょうな筆使いであることが特色です。
人面墨書土器A面   人面墨書土器B面
A面   B面
もう1点の完形の土器は、大型の土師器の甕(口径20.8p、高さ23.5p以上)に、顔の眉・目・目頭・耳・口・髭(口・顎・頬)が墨書きされています。やはり2つの顔が描かれます。人面の筆使いや表情は、先に述べた人面墨書土器と同じで、同一人物の手によるものと推定されます。人面を描く専門の絵師がいたと考えられます。
 
 
人形木製品
人形木製品は、幅2cmほどの薄い板材に顔、手、足を表現しています。顔の部分に目・鼻・口などを墨書きした人形もあります。人面墨書土器同様に、祭祀に使われました。
人形の使い方は、一撫一吻ひとなでひとふきと言われ、人形で自分の身体を撫で、息を吹きかけてけがれを移して川に流し、祓いを行いました。
人形は人面墨書土器と同じ遺構から4点が出土しています。そのうちの1点は、一般的な人形とやや形態が異なっており、下方が尖っています。長さ17.6cm、幅1.9から2.7cm、厚さ2cmの大きさで、肩を切り抜いてつくり、頭部が表現されています。表面の顔の部分には目・眉及び顔の輪郭などが、また体部には衣を表現した線が見られます。裏面には、「神服小年賀かみはとりこねんが」という文字が書かれており、「神服某かみはとりのなにがし」という人名が考えられます。

人形に文字が書かれているのは、県内では初めてで、全国的にみても貴重なものです。
人形木製品
人形木製品
 
 
新川郡家の祭祀場
人面墨書土器・人形などによる祭祀は、奈良時代から平安時代に中央畿内で盛行し、各地に赴任した官人たちによって伝えられたとされ、官人や役所と深い関わりがあります。
本遺跡の北方1.2kmに新川郡家と比定される米田大覚遺跡があり、本遺跡は新川郡家の祭祀場と考えられます。
 
 
関連項目
  豊田大塚・中吉原遺跡1 ちょうちょう塚を造った集落