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第四十五号
平成12年10月4日
●収蔵品紹介  ●神通川〜水害克服と都市計画〜



収蔵品紹介
『神通川洪水写真帖』

神通川洪水写真帖

 川ではありません。神通川(じんづうがわ)の氾濫により、水があふれた街中を、いかだで移動している様子です。これは、明治43年9月の水害の記録した写真集の中の1枚です。この写真のほかにも、鉄橋の上端ぎりぎりまで迫っている濁流や、切れた堤防の様子などが収められています。
 神通川は度々このような氾濫を繰り返し、市街地に水害をもたらしました。こうした水害を克服するため、富山の人々は何を考え、何を行なったのでしょうか。
 今回は、この神通川がテーマです。



 江戸時代の富山町は、周囲を川に囲まれていました。町にとって、川は防御線である反面、度々氾濫し、町に被害をもたらす存在でもありました。特に、大河川である神通川は、市街地の北を蛇行していたため、水害をもたらしやすく、明治時代になっても富山の人々を悩ませました。

馳越工事

 そこで水害を減らすため、川幅を拡幅すると共に、蛇行部分のバイパスとなる分水路を設ける工事が行われました。これは馳越(はせこしこうじ)工事といわれ、明治34年から2年がかりで行われ、同36年に完成しました。工事にあたっては、240mの幅員を全面的に開削したわけではなく、中央部に幅2m、深さ1.5mの細い流れを設け、水の流れを利用して少しづつ川幅を広げていく方法をとりました。また、当初は用水保護のため、1丈(約3m)以上の増水時以外は、水が流れないような構造になっていたようです。


馳越工事

『富山市経営策』(明治34年)

富山実業協会が、市区拡張や停車場の位置など、富山市の将来像について提言した書です。これは、その附図で、希望する停車場の位置や拡張するべき市区の範囲を示したものです。この図を見ると、神通川が大きく蛇行しており、市街地が水害を被りやすかったこと、馳越線がバイパスの役割を果たすことがよくわかります。


神通川
神通川
明治中期の様子。架かっているのは、神通橋。

明治末期の富山駅 神通川対岸の動き
 明治41年に、旧来の市街地から見て、神通川対岸にあたる牛島地区(現在地)に富山駅が移転しました。蛇行する神通川と馳越線に囲まれたこの地域には、新たに駅を中心とする市街地が形成されていきました。
明治末期の富山駅 (富山駅開業・移転についての詳細は「博物館だより27号」参照)

旧水路の締切り

 馳越工事の結果、流水のほとんどは分水路に流れ込むようになり、徐々に分水路が本流化していきました。大正3年の洪水はこれを決定付け、旧流路にはほとんど水が流れなくなりました。そこで、旧流路と分水路の間を堤防で締め切ることになり、大正10年には上流部に、同14年には下流部に堤防が築かれました。旧流路は廃川地(はいせんち)となり、ようやく神通川の氾濫を抑えることができたのです。 神通川廃川地
神通川廃川地
廃川地が埋立てられ、建物が建ち始めている様子。

廃川地の誕生

 昭和3年、旧流路は法律的にも完全に廃川(はいせん)処分となりました。昭和2年に富山県より廃川処分の申請を行い、翌年1月に内務大臣より、河川敷地並附属公用廃止の認可を受けています。こうして、市街地の真ん中に誕生した、広大な廃川地の活用は、市街地発展の上での新たな課題となりました。そこで、その埋立てが企てられ、都市計画法(大正8年公布)に基づいた、都市計画事業として行われることになりました。富山市は大正13年に都市計画法の指定都市になっています。

富山都市計画事業概要
富山都市計画事業概要
富岩運河の開削、東岩瀬港(現富山港)の整備、廃川地の埋立ておよび区画整理など、都市計画事業の主要事業が一枚に表されている。

埋立工事

 工事の主な内容は、廃川地の埋立てと富岩(ふがん)運河の開削で、廃川地を運河の掘削土により埋立てるというものでした。また、馳越(はせこし)線などからの流出土砂により、機能しなくなった東岩瀬港(現富山港)を神通川河口と分離し、近代的港湾として整備する工事も行われました。昭和6年6月12日に起工式が行われています。(富岩運河については「博物館だより18号」参照)

松川 富岩運河開削工事
松川 富岩運河開削工事
神通川旧流路の名残 工事には、エキスカベーカという堀削機が使用されました。

神通地区分譲

 埋立工事により、市街地の中心に広大な土地が誕生しました。長らく川により分断されていた市街地が南北1つにつながったのです。これを機に、昭和11年に埋立地で開催されたのが日満産業大博覧会です。この博覧会の開催により、同地は神通地区の名で整備・分譲が促進されました。そして、開催と前後して都市計画道路が新設され、県庁・放送局・神通中学校・総曲輪(そうがわ)小学校・電気ビルなどの建築物が建ち並び、後には公募により新たな町名が命名されました。特に県庁が埋立地に新築されたことは、同地の市街化に大きな影響を及ぼしました。

富山県庁 電気ビル
富山県庁 電気ビル


 戦後、市役所を始めとする公共建築物や民間のオフィスビルなどが建ち並び、埋立地は中心市街地として賑わっています。現在の姿からは想像もつきませんが、ここに至るまでには神通川との長い戦いがありました。神通川の存在は、様々な意味で富山の街づくりに大きな影響を及ぼしたのです。一度、現在の富山市街図をじっくりご覧下さい。その昔、神通川が大きく蛇行していた痕跡を見ることができますよ。 現在の富山駅北地区

現在の富山駅北地区
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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:河西 奈津子)