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第十八号
平成10年7月14日
●よみがえった富岩運河



中島閘門国重要文化財指定記念特集
よみがえった富岩運河

 平成10年5月「富岩運河水閘施設(ふがんうんがすいこうしせつ)(中島閘門)(なかじまこうもん)」が国の重要文化財に指定されました。
昭和期に造られた土木建造物としては全国初の指定となります。
指定にあたり評価された点は、次の3点です。
(1)近代富山市の都市的骨格形成への貢献度に対する評価
(2)昭和初期の土木施行技術の高さを示していることへの評価
(3)閘門が動態的に保全されたことへの評価
 このように貴重な中島閘門は、更に富岩運河という貴重な遺産の中の一施設でもあります。つまり富岩運河のことを知ることによって、より中島閘門の価値を理解することができるのです。では、富岩運河とはどんな施設なのでしょうか。運河開削の経緯から見ていきましょう。


富岩運河の歴史

廃川地と富岩運河

 神通川は以前は蛇行していたため、富山市街にたびたび大きな洪水の被害を与えていました。そこで、明治34年に馳越(はせこし)分水路を開削したところ、水は徐々に分水路へ流れるようになり、やがて分水路が本川となりました。旧河川の流路の名残が現在の松川です。さて、神通川の流路変更により洪水は少なくなりましたが、富山市街地の真ん中に出現した広大な廃川地(はいせんち)は市街を分断し、都市発展の障害となっていました。そこで運河を開削し、その掘削土を廃川地の埋め立てに利用するという、一石二鳥の妙案が出されたのです。都市計画事業として、昭和6年6月12日に起工式が行われました。

運河開削の様子
運河開削の様子
昭和8年富山市全図(部分)
蛇行している廃川地の様子がよくわかる


 昭和9年に完工した富岩運河の沿岸は工業地帯とする計画でした。大きな水力発電所で作られる廉価な電力豊富な工業用水、整備された東岩瀬港(現富山港)、運河と並行に走る富岩鉄道(現JR富山港線)など工業用地としては最適の環境が整っていました。対岸貿易が活発化していた時期であり、大陸からの原材料を港から運河を使って直接工場に運び、出来上がった製品を鉄道を使って全国へ運ぶということが可能であったわけです。こうした立地から次々に近代的大工場が建設されていきました。その後工業地帯拡大のため、岩瀬運河・住友運河も開削されており、これらの運河をさらに運河で結ぶ計画もあったようです。
 工場への水運に活躍した富岩運河でしたが、戦後の高度経済成長期に入ると運河は本来の利用の仕方はされなくなり、木材の大量輸送によって木材貯木場と化しました。運河は木材に占領され、周辺からの廃水が流れ込んだためヘドロが底に推積し、市民からは邪魔者扱いされるようになったのです。そして昭和52年、県は船溜(ふなだまり)から国道8号線までの2.3kmを埋め立て、幅25mの道路建設を発表しました。もしこの計画が実現していたら中島閘門は取り壊されていたことでしょう。しかし60年代に入って一転、新たなウォーターフロント構想が叫ばれると、富岩運河も整備計画のなかに位置づけられ、親水公園として整備が進められることになりました。
「富山市都市計画概要」



 富岩運河は船溜から、中島閘門を経て富山港まで、ほぼ神通川に沿った形で造られています。事業概要によると延長4,758qの閘門式運河で、幅は上流部が60.9m、下流部が42.36m、水深は2mで、200tの船が航行できるものでした。上下流部の水位差が2.5mあることから、それを調整するために設けられたのが中島閘門です。

船溜

 富山駅の北方に周囲を岸壁で築いた船溜(ふなだまり)を設けました。幅は109m、長さは455mで約5万uの広さを持っています。強固な荷揚岸壁で将来鉄道引込線の敷設も想定していました。運河への給水施設として、神通川からこの船溜へ給水路が開削されています。また、川船の運行のために、いたち川との間に牛島閘門という小閘門が設けられていました。引込線は昭和13年に貨物線として敷設されましたが、昭和59年に廃線となっています。牛島閘門は元の形は失われてしまいました。現在この周辺は「富岩運河環水公園」として整備されています。  建設当時の船溜
建設当時の船溜
富岩運河環水公園
富岩運河環水公園
平成9年7月一部が完成した

閘門

 運河のほぼ中間に設けられたパナマ運河方式の閘門です。今回指定を受けたのは、この中島閘門と護岸を含む一帯です。閘門と放水路、道路用桁橋(けたばし)(中島橋)、木造の閘門操作室、量水計および石積護岸(いしづみごがん)から成り、範囲は約2haです。損傷が激しかった門扉(もんぴ)は建設当時の姿で復元され、これに伴った水抜作業により建設以来約60年ぶりに閘室が姿をあらわしました。石、コンクリート、鉄筋コンクリートが適所に使い分けられており、当時の土木技術のレベルの高さを示しています。また室底には割石(わりいし)が敷き並べられており、閘室内の船が竿で移動できるように工夫されていました。閘門設備の上下流の岸辺は“野面石練積護岸(のづらいしねりづみごがん)”で、曲線を描くように割石が積まれている美しい護岸です。護岸には木々が生い茂り、主要道からも離れているため、静かで落ち着いた空間となっています。


閘室 閘室
底に敷き詰められた割石
建設当時の中島閘門
右が閘室で、左の建物が操作室
建設当時の中島閘門
通水口 通水口
石組の曲線が美しい


門扉を船が航行する仕組み
 門扉を船が航行する仕組み(下流から上流へ航行する場合)
(1)まず富山港と同じ水位で中島閘門まで航行します。
(2)下流側の門扉が開けられ、船はそのまま閘門内へ入ります。
(3)門扉が閉じられ、上流から閘室内に水が入れられます。水位が上流と同じになります。
(4)上流側の門扉が開けられ、船は閘室を出て上流へと航行していきます。
◆上流から下流への航行は、この逆の方法になります。
(1)〜(4)まで所有時間は約5分です。
(模式図は『富山港の運河』参照)


復元された門扉
復元された門扉
老朽化のため一時機能していなかったが、門扉の取り替えでその機能が完全復活した
建設当時の富岩運河
中島閘門附近から下流を望む
下の写真と同じ石段が写る
建設当時の富岩運河
中島閘門の下流部分
護岸に石組
中島閘門の下流部分
美しい曲線を描く



 現在、富岩運河沿いは水辺を生かした都市公園として遊歩道やサイクリング道などが整備されています。市民が気軽に水辺に親しむことができるよう、新しい護岸が形作られているのです。そうした整備が進むなか、建設当時のままの護岸や閘門が残る空間を、そのままの形で保存活用するということは大変意義深いことです。古いものと新しいものとが共存する空間としての富岩運河の活用について、今後注目していきたいものです。 富岩運河緑地
富岩運河緑地
着々と整備が進む
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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:河西奈津子)