本丸の発掘
東辺土塁の発掘(2007年度調査)
(1)近代の構造物
   
本丸東部の搦手(からめて)南石垣の南端には、富山城唯一の現存建築である千歳御殿(ちとせごでん)正門(三間薬医門(さんげんやくいもん)形式、市指定文化財)が移築されました。これに伴い、門の南側に模造石垣を作る計画が立てられたため、2007年に発掘調査を行いました。

ここは江戸時代搦手南石垣から続く土塁があったところです。明治16年(1883)富山県庁が置かれたとき、土塁を崩して堀に土橋状に通路を作り、県庁表門(東門)としました。大正14年頃には土塁を削って整地し、中部土木管区施設が建設されまし(「富山縣廳(けんちょう)構内一覧」富山県公文書館蔵)。その後昭和29年の富山産業大博覧会には大型パビリオンが建設されました。

 「富山縣廳構内一覧」(富山県史)
上の発掘調査位置(図
内)
土塁の中から板組施設2基が検出されました。
1基は、東西1.5m、南北1.6m、深さ60cmの箱形で、3面の内壁は板張で、内側を木杭7本で留めています。壁のない1面は、別の板組施設と接しています。

内寸は南北1.05mから1.25m、東西1.4mです。壁板は長さ3尺の板3枚を横置きします。床面も板敷きで、北側は短い板材を南北に7枚、南側は長い板を東西に1枚敷いていました。杭材はマツが多く、板材はスギ・マツ材でした。内部には、ガラス片・軟質施釉陶器・蓄電池とみられる金属加工品のほか、60cmを超える大きな割玉石が投げ込まれていました。

もう1基、前述の施設と接して長方形の施設が検出されました。東西4.4m以上、南北1.8mから2.0m、深さ75cmで、長辺はさらに調査区外へ延びています。内壁は西半分のみ4枚の横板張で、東側は土がむき出しでした。板材は1間以上の長尺板を用いています。長辺内側には約90cm間隔で太い丸太柱を3本ずつ打ち込んでいます。柱材は、スギ・マツなど、板材はマツでした。床面は叩き土間で、床板はありません。内部からは伊万里・曲物(まげもの)片などが出土しました。

今回見つかった板組施設は、大正末頃に存在した中部土木管区施設のミニ地下室で、資材などを納めたものと考えられます。
(古川)
板組施設(南東から)
板組施設(南東から)