渡町
推定わたり町と旧流路
推定わたり町と旧流路
江戸時代以前、神通川の本流は大きく蛇行を繰り返していました。戦国時代以降神通川の本流は富山城の北側を通っていました。その上流は、現在の井田川につながり、その川縁には天正年間、大峪城(おおがけじょう)や安田城が築城されました。

江戸時代、小杉から呉羽山を越えて富山に至る北陸街道は、五福・愛宕町・舟橋町を経て舟橋を渡って富山城西側に到着するルートでした。

江戸時代の北陸街道や舟橋周辺を記した絵図は数多くありますが、このうち五福・舟橋町間に「渡町」・「わた里町」=「わたり町」と記してある絵図が3枚存在します。
仮称 「越中国絵図」(野村藤作氏旧蔵) 表記「わた里町」
「越中国輿地全図」(吉田文庫) 表記「渡町」
「越中国絵図」(富山県立図書館蔵) 表記「渡町」
渡町の名称は、正保3(1646)年加能越三ヶ国高辻帳原稿(通称正保郷帳、加越能文庫)に挙げられた村名には見当たらないことから、1646年以前に存在した町名と推定されます。

江戸期以前の神通川流路は、江戸期絵図、地籍図や現地に残る段差で確認することができます。これによると、五福周辺には大小6本の流路跡が確認でき、それらはほぼ4期にわたる変遷を示しています。

前記渡町の位置は、江戸期に「油川」「亀之甲門川」と呼ばれた流路間にあります。地割図では「五丁分」の小字のところになります。この2本の川は、天正13(1585)年に築造された大峪城前面の流路より古い段階の流路と推定できることから、渡町は戦国期以前にいずれかの河川を渡す渡し場の町であったと考えることができます。

保科齊彦氏によれば、神通川下流の富山市草島では、慶長期(1596年から1615年)以前の渡し場を「わたり」、慶長期以後を「わたし」と区別して呼んだという地名が残されているとされます。このことは渡町の成立年代を考える上で重要な意味があると考えられます。
(古川)