戦国時代の落し穴
   
富山市の西部、富山市境野新付近の緩やかな丘陵地帯からは、発掘調査で落し穴状の遺構が発見されました。これらは、深さ1mほどの穴が間隔を開けて一列に並ぶものです。
近くの開ヶ丘丘陵では縄文時代の落し穴遺構がいくつか発見されており、当初これらも縄文時代の落し穴と推定されていました。
野下遺跡の落し穴状遺構
野下遺跡の落し穴状遺構
しかし形態や遺構構築の状況から再検討したところ、これらの落し穴状遺構は、中世に構築された可能性が高いことがわかりました。
越中の三大山城の一つ砺波市増山城が越後上杉勢に攻められたとき、落し穴を掘って敵将を落馬させた、あるいは婦中町小長沢の各願寺に比叡山延暦寺勢が攻め入ったとき周囲に落し穴を掘って防御したなどの伝承が残っています。事実かどうかは不明ですが、少なくとも戦国時代頃の戦術の一つに落し穴を掘る「陥穽」の術が存在したとみられます。
境野新付近の列状の落し穴状遺構は、このような陥穽の術に基づいて作られたものであった可能性があります。これらが築造された位置は、富山平野と増山城を結ぶ幹道付近にあり、また各願寺のすぐ北側にあたります。
北押川C遺跡の落し穴列
出典『富山市北押川C遺跡発掘調査報告書』富山市教育委員会2003年 
北押川C遺跡の落し穴列
 
遺構の形状には、縄文時代以来の楕円形形式のものと、方形・円形の深い形式のものがあります。前者は、人や騎馬を落とすためのもの、後者は待ち受ける兵士が潜むためのものといった用途の違いが推定されます。
周辺地域にはこれに類する遺構は発見されていません。またこの遺構の性格については、縄文時代のもの、井戸と考えるべきなどの異論もあり、詳細は今後の研究を待たなければなりません。
(古川)